涙を流した覚えが無い。冷血人間だと周囲から倦厭されるのは自分でも認める通りで気にしてもいない。親友一人が死んでも涙一滴ですら出てこなかった。ただ呆然と、唐突に突きつけられた「死」という現実に立ち尽くしただけだ。それだけだ。
ざざあ、髪を風が揺らす。彼はいつも通り部屋の前にやって来て花をそえる。献花の積もりなのか。 だがそれを問う価値は何処にも無い。其の資格すら失われている事に疾うに気づいていた。 故にただ考える。後ろの樹木の高きから、沈黙、彼の姿を見下ろし夏野は独り思考する。彼は夏野には気づかず、部屋の前に立ち竦み、花を置いてはまた闇へと還る。
涙の感触が忘れられなかった。虚ろな眼窩からこぼれ落ち夏野の頬を濡らす涙は、まるで夏野が流した其れのように頬をゆっくりと緩慢に伝う。寄り添ってきた体は氷のように冷たかった。体温が高い彼はどうにも人に抱きつく癖があるようで、真夏だというのに何時でも何処でも夏野に纏わりつき大変鬱陶しかった覚えがある。バカだな徹ちゃん、そんな冷たい体じゃあ、おれがあんたを鬱陶しく思う理由がなくなっちゃうだろう。真夏にはぴったりの冷たさ。…尤も、その時もう夏野は、四肢を動かす事すら侭ならず感覚さえも失われていたが。 そして生の終わりを覚悟した夏野を待ち受けていたのは、死ではなく、忌むべき起き上がりとしてでの体であってもそれとは根本的に少し異なっている、だから、ああこれは罰なのだと夏野は理解した。彼を起き上がりにしたのは間接的とはいえ夏野の所為だ。清水恵は夏野と徹の仲に嫉妬し彼を襲った。故に彼を責める権利は無かったにも関わらず追い詰めたのは自分だ。彼を憎む権利も彼を断罪する権利も自分には無い。分かっていた。
八本目の花を地に並べた彼は、別れの言葉を口にしている。夏野は樹枝の上で膝を抱えた侭呼び止める。目が合い、彼の驚いた顔。
何とでも言えばいい。目的は何とでも言える。そのあんたをその呪われた身体から解放してあげるため?その苦痛の終焉を迎えさせてやるため?優しすぎるあんたが傷つくのを見ていられないから?それとも俺の命を奪った事に対する復讐?…贖罪とも復讐とも何とでも、そしてその行為の対象ですらくるくると廻る。 おれの血を啜りながらも泣いて謝った徹ちゃん。もう終わりにしようよ。泣くなよ、と頬に添えてやりたかった腕も動かずに其の儘意識は暗転した。だが不思議と夏野の胸は奇妙に落ち着いた諦念に満たされていた。逃げようと思えばいつでも逃げられた癖に、こんな下らない村に留まってここに骨を埋めるのか、馬鹿みたいだ。だがそんな悔恨の念よりも目の前の彼が気になって気になって、そしてこの期に及んで彼の心変わりを未だに期待している自分が可笑しくて夏野は少し笑ってしまう。ごめんな、と謝る徹ちゃんの顔は人間そのものだ。これは徹ちゃんだ。化け物ではない。だがもう人間とは相容れる事は出来ない。共生を謳った夏野の手を払い除け、本能に負け、血を啜った彼の牙、喰い破られた項の痕が疼く。その他におれに何が出来た。
おれを許すな。憎め。好きなだけ憎んでくれ。おれはあんたを殺す。おれはあんたをこんな体にした起き上がり達を許さない。おれを殺したあんたも許さない。でもそれは誠でもありまた嘘でもある。おれが憎いのは徹ちゃんを助けられなかった自分自身でもある。そして起き上がりとなった忌まわしいこの己が許せない。「生きたい」と、屍の身になってもなお生を望むあんたの存在を是認出来ない俺は矢張りおかしいのか。分からない。ただ目の前が赤に染まっていく。 「おれは起き上がりを許すつもりはない。徹ちゃん、あんたもだ」 「あんたは俺を殺した!!」 「スパイを一匹飼っているからな」
夏野が人間だった最後の夜、窓から忍び込んできた彼は夏野を抱きしめた。ごめんな、声が夜闇に沈み、夏野の頬を透明な雫が伝わる。不思議に吸血の際痛みは無く、ただ酩酊感が身体を巡るだけだ。意識が澱んで見えなくなっていく。彼の流す涙の底に沈んでゆく。冷たい腕がきつく身体を抱いた。密着した所為で癖のある柔らかい髪がさらさらと夏野の顔にもかかる。 彼の人間としての生は此の記憶で途切れている。 そして、再び目を覚ます。人間としてではない、異形の生物として。そして歩き出す。
「もちろんだ。いずれはスパイも殺すし、おれも死ぬ」
おれを許すな、徹ちゃん。あんたを殺すのはおれだ。
自分を憎みきる事が出来ない優しい優しいあんたの為に、おれがあんたを憎もう。
地平線から徐々に姿を現しつつある暁光に背を向け一人歩き出す。
2010/10/24
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