帰りのホームルームが終わった直後の事だ。徹はその時、鞄の中に教科書を詰め帰り支度を整えている最中だった。
「おい、武藤。カワイコちゃんからお呼び出しだぜ」
「ほえ?」
クラスメイトからニヤニヤとひやかされ、徹は駆け足で教室の窓に寄っていってガラリと窓を開けた。案の定、ショルダーバッグを斜めに提げ、学生服姿の夏野が、徹の教室から少し離れただけの位置にある校門の前に、ひょっこりと一人で立っていた。こちらを見ている。
「夏野ぉ!」にぱぁと飛びっきりの笑顔でそう名前を呼び、徹は窓から外へ飛び出した。こんな時、教室が一階であり校門の前にあるという事に感謝せずにはいられない。
走り近寄って、其の儘の勢いで抱きつこうとした徹の腕はさっと空ぶる。また今日も避けられたのだ。
「…だからさ、そういうのやめてくんない。そんで名前も呼ぶな学習しろ」
そう言う夏野は滅茶苦茶不機嫌そうな渋面だ。
「なんだよぉ、コミュニケーションだろお。あ、もしかして照れてんの?照れちゃってんの?ふっふっふ、カワイイヤツめ〜!」
「ふざけんな…」また抱きつこうとした徹の額を、夏野の掌がぐりぐりと押し返している。夏野はげんなりとした顔だ。
「や、だって最近夏野会いに来てくれる頻度増えたし、なんかおれ嬉しくてさぁ、なははは。そんで、今日はどした?」
「徹ちゃんち遊びに行っていいか聞こうと思って…」
「おおいいぞいいぞ〜!晩飯どうする?食ってけよ」
「うん」
じゃあさ、おれ今日掃除当番あるしちょっと時間かかるかもだけど、そこらへんで待ってて。すぐ終わらすから。
夏野はこくりと素直に頷く。白シャツの襟が眩しい。
徹はその素直な夏野の様子に少し笑って、笑顔でまた教室へと戻った。
残暑は今だ厳しい。だが徐々に徐々にと北風がやって来ている。
───微かでも僅かでも、秋の気配が。
武藤。またアイツだったろ。あの中学生。
誰なん?見かけない顔だけど。
口々に聞いてくるクラスメイトに、徹は回転箒でイソイソと床を掃きながら、笑顔で答えた。
「結城夏野だよ。都会から最近外場に越してきた奴。これがまた猫みたいなヤツでさ〜、もうここまで懐いてくれるまでにどんだけ時間がかかったか」
「確かに毛色が違うよな。なんつーの?いかにも都会人みたいな?髪もなんか女みたいに長ェし、変わってんな」
「でも美人だろ?またモテるんだな、これが」
徹がヘラヘラと答えると、クラスメイト二人が、きょとんと徹を見返す。手に持っていたジュースのパックも、ぽろりと落ちる。
首を傾げたのは徹だ。
「…ありゃ?おれなんか今ヘンな事言ったっけ?」
「いや、ヘンっつーかなんつーか…なぁ?」
「ウンウン。今の発言はアレだな、俗に言う『惚気』とも言うべき…」
「のろけだぁ?」と、徹。
「や、そうだろ今のは完全に。彼女を自慢するアレだろ」
「お、武藤君ったらホモに走っちゃったのね〜!!きゃあ不潔よ!確かにあの子華奢だしカワイイものね!」
何でオネエ言葉なんだよ〜と徹がゲラゲラと笑う。
「にゃははは、おれと夏野はそんなんじゃねーから、ただのフレンドだもんよお〜」
「だって武藤さあ、お前誰とでもすぐ仲良くなる癖に、女子とも仲良い癖に浮ついた話全然ねーじゃん。それであの笑顔は反則じゃね?抱きつこうとなんかしちゃってさ〜、めっちゃ嫌がられてたけど」
「そーなのよ、アイツハグとか嫌いなんだって。だからいっつも避けられてさ〜寂しいのよぉおれったら」
「酷いわっ徹ちゃんたら、私たちには抱きついてくれない癖にあの子には抱きつくのねっ?!」
「だから誰なんだよオメーはよ」ケラケラ笑っている徹が突っ込まないので、もう一人の少年がビシッと突っ込む。
「でもホントアヤシ〜。それでもなーんか、妙にアイツの事は気に入ってそうだしさぁ」
「そうかぁ?普通だろ」
「そもそもアイツ、最近来たばっかの新入りだろ?何だって急にそんな仲良くなったんだよ。お高く止まってそうじゃん、都会のヤツなんか」
「うーん…まぁ誤解を受けやすいタイプではあるかもな。すんげーイイヤツなんだけど。仲良くなったのは…何でだろ。おれにもわかんねぇーわ、不思議だなあ」
んじゃ、お先。
いかにもテキトーに掃除を済ませ、同じ日直の女子に軽く睨まれるも、徹は「今度なんか奢るからさ、今日だけは帰してくれぇ頼むっ!」と愛想笑いで何とか切り抜け、鞄を持って下駄箱へと急ぐ。夏野が待っている。心が浮き足立つ。薄汚れた上履きを無造作に狭い下駄箱に突っ込み、ローファーの踵をみっともなく踏みつけた格好の儘、小走りした。
先ほど見た通り、校門に凭れて彼は立っていた。英語の単語帳を片手に持って、パラパラと眺めている。徹がバタバタと寄ってくると、それを閉じて目を徹に向けた。
「…何、もう終わったんだ。ちゃんと掃除した?」
「したした。お待たせ」
その時、「デート頑張れよー!」と怒鳴る声が何故だか徹と夏野の耳に届く。
───さっきまで徹と談笑していたクラスメイト達だ。窓から顔を覗かせて、ニヤニヤと笑っている。
「…デートって、なに」
夏野が眉を吊り上げさも不機嫌そうに徹に訊いた。徹は反応に困りながら、苦笑する。
「や…なんでもないから。ホント気にしないで。さっき惚気ちゃったみたいだからさ、それで根に持ってんの」
「は?のろけ?」
「いいからいいから、さ、帰ろお」
夏野の背中をぐいぐい押してそそくさと徹はこの場から逃げた。
自転車を押している。今朝はバスではなく自転車で来たらしい。外場から溝辺町までは結構な距離だというのに、夏野はこうして定期的に甲斐甲斐しく自転車で通学する。
夏野は、外場の公立中学校に通わず、わざわざ溝辺町の私立中学校に通っている。外場より溝辺町の中学の方が学力が上だから、という理由らしいが、余り勉強やら進路やらに熱心ではない徹にはよく分からない。だが、確かに溝辺町の方が環境も良いのは確かだ。外場の学校は小・中とあるが、そのどちらも閉校寸前とまでいえる人数で、故に当然ながら設備も悪い。
学校がどうあれ、夏野の通う中学校と自分の高校が案外近くて喜んでいるのは、徹だ。夏野は越して来た当初は毎日自転車通学だったらしいが、徹がバスでの行き方を教えてやると最近はバスの利用も増えた。同じバス停を利用するため、顔を合わせる回数もぐっと増えた。朝会う日もあれば、帰りを共にする日もある。会う度に徹の心は不思議と浮き足立つ。徹は何故だか、この都会から来た少年を、異様に気に入っているようだった。
「…何、ジロジロ見てんの」
「おりょ?」
横から小突かれ、徹は頓狂な声をあげた。
「あ、無意識だったわ。スマンスマン」
「話戻すけどさ、さっきのアレも何の話だよ。デートって、もしかして徹ちゃんこの後用事あるんじゃ…」「違うってばぁ。アレはちょっとしたオフザケの延長線だからさ、気にしない気にしない」
と言ってる側から、二人の横を追い抜かしていく制服姿の女子四人が、徹に声をかける。
「武藤くん、ばいばーい」
「おー、また明日なぁ〜」
そして走りながら、彼女らは、笑顔で人懐こく手をふる徹を何度も振り返っては、何事かを小声で話し合い、クスクスと笑っていた。
「…ホラ、やっぱモテんじゃん。あの人たち、徹ちゃんの事ジッと見てるよ」
「ちげーだろぉ。お前の事見てんだよ、アレは。だってさっきもお前の方見て、あの子カックイ〜ってヒソヒソ話してた女子居たもん、ウチのクラスの女子な」
良かったな夏野!お前モテモテだぞ。ぽん、と肩を抱くと、夏野はツンとそっぽを向いた。
「おれが都会からの転校生だから、もの珍しいだけだろ」
「ま、ま、そういうなって」
徹が宥めても、夏野は今だ眉間に皺を寄せていた。
「そういうのって、鬱陶しい。おれの事なんも知らねぇ癖にさ」
「…おれも、未だお前の事よく知らないけどぉ」徹が苦笑する。
徹は、夏野にだけは嫌われたくないと思う。
なるようになれ、と周囲に得てして無関心だからこそ徹は八方美人の性質を持っている。好かれようとも嫌われようとも頓着しない。興味が無い。だから誰にでも笑顔を向ける事が出来る。周囲の者はそれを優しさと評価するが、そうではないと徹は断言する。
それはただの惰性だ。
素直に率直に自分の気持ちを伝えるのが億劫でならないからだ。だから惰性で笑いかける。だから惰性で誰にでも笑顔で接する事が出来る。自分の意見を主張し衝突する度量が無いから、誰に対しても笑顔を振る舞う事が出来るのだ。
だが夏野は違った。どこまでも自分に正直で、真っ直ぐで、そして優しかった。
口は悪いが、その実徹底して冷静で公平、故に選択の自由を誰よりも尊重していた。それは何故だろうかと考えた事がある。彼は自由ではないのだろうか。だから自由を尊重しているのだろうか。
彼の優しさは不器用な優しさだ。それと気付かせない優しさだ。言葉を飾る事もせず、常に人の目を真っ直ぐ見据えている。偽りがそこには無い。他人に厳しい代わりに自分にも厳しい。
つまり、手抜きをしないのだ。惰性に突き動かされ曖昧に他人と和する事をしないのだ。いつでも彼は本気で、本音で、本当の事しか言わない。妥協や惰性という言葉も知らない。常に相手の眼を見ている。向き合っている。その意味で、彼は徹とは正反対と言ってもいい。
徹はだから夏野に惹かれている。それは認めざるをえない事実だった。故に徹が彼に向ける笑顔だけは惰性のそれではなかった。───もしかしたら、自分は夏野に憧れているのかもしれない、彼の生き方に憧れているのかもしれないと思う。
夏野が何かを言おうと口を開いたところを遮り、徹は言った。
「よし、ここまで出たならオマワリもいねーだろ。ホレ、トクベツに二人乗りで漕いでやっから、後ろ乗れ。おれの底無しの体力見せてやるよん」
夏野は黙って後ろに乗る。「行くぞぉ」と漕ぎ出すと、自転車はあっさりと風に乗った。思ったよりも後ろの夏野が軽いからだろう。太陽が眩しい。
田園風景が広がる。外場までは未だ遠い。
「まだまだぁっ!」
徹は下唇をぺろりと舐めて、更にスピードを上げた。ガタン、と自転車が少し揺れる。後ろの夏野が驚いたのか、徹の背中にしがみついてきた。徹は少しその温もりに動揺する。
夏野が何事かを喋ったが、風に揺すられその言葉は不明瞭だ。徹が明るく笑った。
「何だって?スピード上げたからビビったかぁ?にゃはは」
違う、と夏野が背中を小突く。「徹ちゃん、おまわり来た」と大声で言った。漸く徹は状況を理解して、ペダルを漕ぐ足は休めぬ儘そおっと後ろを振り返った。風に嬲られている夏野の髪の向こう側に、走って自分たちを追っかけてくる警察官の姿がある。徹がぎょっとする。
「こるぁ、そこの二人乗り、止まりなさい!危ないからやめなさい!」
それがまた、物凄いスピードで追ってくるのである。たかがチャリの二人乗りに、そこまで躍起にならなくても良いだろうと思うのだが。
「ひぃぃごめんなさいいいい!」
徹が脅えながら更にスピードをあげた。だが丁度道は緩やかな上り坂だ。ふぬお、とシャカシャカペダルを漕いでも、スピードは上がらない。汗がたらたらと垂れてきた。
「徹ちゃん!もっとスピードあげろ、追いつかれる!」
「うお〜〜神よおれに力をぉぉぉ!」
アホみたいに叫びながら、徹は渾身の力で自転車を漕いだ。すると、上り坂の頂点に漸く達したらしく、下り坂になる。スピードがのる。
後ろの夏野が捕まりそうになる寸前で、徹の自転車は下り坂を迎えたのだ。警察官は肩で息をしながら、諦めて立ち止まり、徹たちに向かって叫ぶ。
「コラァァ!今度やったら親御さんに電話するからなぁ!覚えときなさい!」
夏野がヒラヒラとやる気の無い様子で手を振った。小さく「やれるもんならやってみろ」と呟いていたのがおかしくて、徹はゲラゲラと笑う。風が服と髪を靡かせた。夏野の腕が、遠慮しがちに徹の服を掴んだ。
このまま、外場の尾見川まで涼みに行こうぜ、と徹は言った。夏野は聞き取れなかったようで、徹に身体を寄せる。徹がもう一度同じ台詞を言うと、最後は笑いながら、いいぜ、と言った。

自転車を停め、二人は川原を下る。
空はマーブル色だ。西は茜一色の癖に、東はもう暗い。日もこうして大分短くなった。そろそろ本格的に秋がやってくるだろう。その証拠に、残暑は未だ真夏のように厳しいものの、夕方になると少し温度が下がる。だがそれでも十分暑い。
「尾見川って妙な名前だよな。意味あんのかな」と、夏野。
「や〜どうだろうねぇ。それよりさ、早く川入ろうぜ、夏の遊び納めだ。うひょー冷たい!こっち来いよ夏野ぉ!」
靴下を脱ぎ、ズボンの裾を捲って徹は川水に浸る。ザブザブ水を掻き分け、夏野を手招き。
「おれはいいよ、濡れんじゃん…こっから見てるから」
「何言ってんだよ、川涼みったら入るっきゃねーじゃんよお」
「もし濡れちまったらどうすんの。おれ、徹ちゃん家にお邪魔出来ないだろ、そんな格好で」
「何言ってんだよ、おれの服なら幾らでも貸してやるってば。水臭ぇ〜の、シャワーも何でも貸してやるよ」
「…流石にそれは悪いだろ」
夏野は目を伏し遠慮する。妙な所で慇懃さを発揮する。徹が意外だと瞬いた。
「なんで?」
「そこまで迷惑かける訳には」徹が夏野を遮る。「遠慮すんなよ。迷惑なワケねぇじゃん、夏野が相手なんだから」
黙って夏野が一歩徹に歩み寄る。水の中に足を沈める徹、川原に立ちそれを見下ろす夏野。暫しの逡巡の後、夏野は、
「ヒルとかいないの、」と真剣に訊いてくる。
説得はどうやら成功したようだ、と徹はニッと笑った。
「ヒル…は…たまに居るけどなぁ。でも大丈夫だろ、ここらへんなら」
「適当に言ってるだろ、徹ちゃん」
「や、んな事気にしてたら川遊びなんか出来ないって。だいじょぶだいじょぶ。居ない居ない」
「おれ、ああいう軟体動物キライなんだよね。グロイやつ」
徹はニヤニヤ笑いながら、夏野が靴を脱ぎ靴下を脱ぎ、ズボンの裾を捲った頃合を見て、腕を無理矢理掴み引き寄せる。バランスを崩した夏野は、引き寄せられるが儘に、徹の方に倒れこんだ。水飛沫があがった。
「うわっ…止せって!徹ちゃん!」
「ホーレホレ、うだうだ言ってねーで遊べ〜遊べ〜。こっちの水は冷たいぞぉ」
冷てぇ、と夏野は悲鳴をあげる。徹が面白がって、夏野の剥き出しの足元にばしゃばしゃ河水をかけた。
「…調子に乗るなぁ!」
「ぶわっ冷てー!」怒った夏野に特大級の飛沫をかけられ、徹の腹にも水がかかった。びっしょりと白いシャツが水浸しになった。
「ああああ!おれの制服ビチョビチョになっちゃったじゃん!」
「ふん、自業自得だろ」「なんだとお!このやろ〜!」
徹がケラケラ笑って更に飛沫を巻き上げる。夏野が嫌がって逃げる。
「だから止めろって!制服にかかるから!」
「だってぇ、おれの制服もうビチョビチョだもーん。お前のもビチョビチョにしてやるもーん」
「元はといえばそれも徹ちゃんが…、…っ?!」
夏野が川底に足を滑らせ、バランスをぐらりと崩した。「夏野!」徹が咄嗟に手を伸ばすも、支えるには至らない。結局、二人とも派手に倒れこむ。飛沫が盛大にあがった。
夏野の上に転がるようにしてつんのめった徹が、がばりと身体を起こす。下敷きになっている夏野の表情を見ると、流石に笑顔は引き攣った。
「…スマン、助けられなんだ」
「…」
夏野は仏頂面で、しとどに濡れ額にはりついた髪の毛をかきあげた。転んだお陰で、徹も全身びしょ濡れだが、徹の下敷きになって潰れた夏野は更に酷い。濡れネズミのようになっている。白いシャツが肌にぴったりと密着していた。折れるのではないかと思うほどに細い身体のラインが露わだった。徹が思わずぎくりとする。
夏野は徹の胸倉を掴む。
「…徹ちゃん」
距離は近い。真摯に夏野の双眸は徹を見ている。その眉根は切なげに寄せられていて、声は何時もに無く頼りなさげで、何か切迫したものを感じさせて徹は何故かあたふたと慌てた。───まるで、平生の彼に似合わず、徹に縋っているような。
「な、なんだよ夏野」
「あのさ…一つ言ってもいいかな…」上目遣いで見上げてくる。更に徹の心拍数があがった。
「な、なに」
そしてこの一言である。
「足首、何かグキっつった。もう涼みは終わり、んで徹ちゃん家までおんぶな。チャリ押しながら」
「…ハイ」
「さっき、遠慮すんなっつったもんなぁ、徹ちゃん」
「…ハイ」
本当に、遠慮していなかった。というか、命令だった。
家に夏野を連れて帰る。シャワーを先に使わせ服を貸し着替えさせ、びしょ濡れになった制服は洗濯機に放り込んだ。徹はといえば、夏野の世話にあれやこれやと追われ、私服に着替え軽く身体を拭いただけだ。
「ダボダボなんだけど、徹ちゃんの服」と言って髪をタオルで拭きながら出てきた夏野を黙って椅子に座らせ、何をしやがると暴れる身体もあっさり抑え、ドライヤーをかける。風邪をひかれちゃ困る、ちゃんと乾かせてからウロウロしなさいと母親じみた説教に夏野は「ふざけるな」と大激怒で騒いでいたものの、徹の力には適わず、暫くすると諦めてムスっとした顔で徹にされるが儘の状態。
夏野の髪が、梳かす徹の指の隙間を流れていく。
「足は?ヘーキか?」
「軽く捻っただけだからな。今は大丈夫」
「念のため湿布やるから、貼っとけ」
「ん」
ドライヤーの温風に靡く癖のある髪を撫でながら、徹は言う。
「…夏野ぉ、お前、なんかネコみたいだな」
「はぁ?」
「いや、最初は警戒心丸出しなのに、こう一回懐くととことん馴れるというか」
「いつおれがあんたに懐いたって?」
「…にゃはは、ハイすいません」
「逆だろ。おれがあんたに懐いたんじゃなくて、あんたがおれに懐いたんだ」
「おれぇ?」
「徹ちゃんのが先だろ」
妙な意地を張る夏野の顔は、徹からは見えない。徹が見えるのは、彼の白い項と、しっとりと濡れて艶やかに徹の手から滑り落ちる髪だけだ。
「…そうかもなぁ」
徹は少し笑いながら、夏野の頭を撫でた。夏野は嫌がり、少し身じろぎする。だがその手が跳ね除けられる事は無い。
夏野の髪を乾かした徹は、浴室へと向かう途中で妹の葵にばったりと出会う。彼女も今しがた帰ってきたらしい。
「バッカじゃないの、この時間で、この季節に、しかも制服姿のまんまでナツと川遊びぃ?」
「わはは…面目ない」
「お母さんカンカンよ。流石にナツが居る前で叱ったりはしないだろうけど、ナツが帰ったら覚悟しときなさいよ、お兄ちゃん」
うううそれはイヤだなぁ、悲痛にうめきながらしくしく徹は浴室へ向った。その顔を見ながら、葵がつつつ、と着いて来る。はた、と徹が顔をあげた。葵と数秒見つめあう。
「…何だよぉ、兄ちゃんの着替えみたいのかぁ?いやんエッチ」
「なワケないでしょ。…じゃなくて、何かニヤけてるから。何かあったのかな〜と思って」
徹が自分の頬をぺたぺたと触る。自分ではまるで解らない。
「まじ?ニヤけてる?」
「そ。あやしーから止めなよ、ソレ。ま〜普段から惚けたニヤケ顔だけどさ〜、キモチワルイったら」葵がひらひら手を振って去る。彼女は台所に居る母親の食事の準備の手伝いをしなければならない。
徹は浴室の前で服を脱ぎ始めた。そして上だけ脱ぎ終わったところで、思い立ったように洗面所の鏡を見て、頬をぺしっと叩く。
「…浮かれてんだなぁ、おれ。あいつと居るとそんな楽しいか」
そして、夕飯後、お前が帰るとおれが母さんに怒られるんだよ、だから今日は泊まってくれよ夏野ぉ〜と、大変みっともないお願いを耳打ちした徹を、絶対零度の双眸が射抜く。この日初めて夏野は武藤家にお泊りしたのだった。
「───今日だけだからな」と溜息をつく夏野。
「いや、いつでも来いよ」
お前はおれの側に居て欲しい。おまえはおれを好きだと良い。おれだけを。
一瞬浮かんだ仄暗い、それでいて子供じみて馬鹿げた願望を、欲求を、徹はすぐに意識の水底に沈める。解っている。
「友達なんだからさ。親友、な」
何てことない、しかし重要な、それでもいつか忘れ去られていく、愛しき日常へ。
2010/11/10
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