───医者なら誰でも良かった。当時の私の動機にはその言葉しかなかった。

 あくせく働く親たちに構って貰った記憶は余り無い。代わりにお金はあったから、何でも好きなものを買えた。
 でも不思議な事に、その行為はまるで代償行為のようで、私は何かを無理矢理埋めるように、空隙を空虚を埋めていくようにそのお金を費やした。

 だから彼がお医者さまの卵だと訊いた時、私の心は正直躍ったわ。
 いいじゃない、結局世の中お金なんだから。私を放って金儲けに腐心する両親(それでも彼らはお金目的じゃなく自分の趣味としての事業運営に没頭していただけだと言い訳するだろうけど)、私には最初からお金しかなかったわ。私、お金と恋人なの。だからお金と結婚するの。お金さえあれば他なんて本当に些細な事だわ。この空虚も心の間隙もどうだっていい事でしょ?そうでしょ?

 逆に、彼だって、どうでも良かったんでしょう。私じゃなくても良かったんでしょう。だって、私を見る彼の目は、どうでもいいものを見る目だもの。前に、ぽつりと、無理矢理お見合いさせられそうだったって語った事があったものね。きっと貴方はそれが嫌だったんでしょ?だから私を選んだのね、親の人形になりたくないからせめてもの抵抗だと。誰でも良かったんでしょう、親の選んだ女性と結婚しない為に。

 

 ほらね、結局の所私たちは似たもの同士。なぁんてお似合いのカップルなのかしら!
 …ああ、でもあんな五月蝿いババアが姑なんて本当ツイてないわ。
 

 

 それでも、あの姑から呼び出されれば渋々従う程度には、あの人の事を好いていたのよ。
 でもね、あの男は、私と村を比べて、結局村をとった。
 ───父が亡くなったから、おれは村へ戻らなければならない、ですって。
 私、彼の故郷がしなびたド田舎だって聞いて、ウンザリしたの。そんなところへ付いて行きたくなんてない、って言ったら、そうか、じゃあおれは戻るからな、ですって。アッサリ。私も流石にカチンと来て、「私はここに、…都会に残るわ。何があったってここを動かない。あなた、どうするの?私と村、どっちをとるの?」ってきいたの。そしたら彼はトランクに荷物を詰める手を少しも休めないで、スマン、とだけ。思わず愕然とした。

 何よ。


 何よ何よ何よ。あんなに、両親の事、忌み嫌ってた癖に。おれは奴らの人形じゃない、って文句言ってた癖に。いざとなったら、結局、親に従うんじゃない。村に従うんじゃない。私よりもそっちを選ぶんじゃない。
 ムカついたから、月に一度ずつ送られる生活費、たった一日で全部使いこんでやったの。それで電話した。ごめんねぇ、お金、もう無くなっちゃったぁ。
 そしたら彼は、笑いもせず怒りもせず泣きもせず、機械みたいな無機質な声で、「解った。じゃあまた今日の夕方までに金振り込んでおくから」って。

 『…私はまた捨てられたのかしら』。この言葉だけがぐるぐる回る。でも不思議ね、どうしてこんな事思うのかしら。私、人を捨てても捨てられた事なんかないわ。だって私が好きなのはお金だけだもの。だって口が無いから裏切らないもの。

 

 どうしてその後すぐに都会から溝辺町に引っ越したのか。溝辺町ったってただの田舎じゃない。でも私はそこに越してきて自分で店を開いた。ママやパパがやってたのと同じだわ。あら、私、どうしてあの人たちの人生をなぞっているんだろう。あの人たち、私嫌いなのに。

 それとも、ただ、あの人の側に居たかっただけかしら。本当は、私は、「私を置いて行かないで」って言いたかったのかしら。みっともなくてもいい、その腕に縋りたかったのかしら。でも、詰まらないプライドがそれを許さないし、だからせめて、少しでも近くへ、と思って溝辺町へ来たのかしら。あの人が泣いて詫びて私の事を求めない限り、絶対村なんか行ってやらないんだから、という思いを胸に。

 

 あのババアから電話があった時、私は少し嬉しかったんだと思う。これで会いに行ける口実が出来たのかと思うと。
 あら?私、お金しか好きじゃないはずなのにね。お金をくれるあなたが好きな筈だったのにね。これは何かしら。…あら、私あの人の事本当に好きになっちゃったのかしら?バカね、そんなワケないじゃない。私はそんな弱い女じゃないわ。そんなガラじゃないのに。

 

 

 

 

 この村に来てから、男の友達が出来た。彼、最高に面白いのよ。村の奴らはドン臭いし田舎臭いし大っキライ、でも彼は頭がいいし明るいし、しかもガサツそうに見えてソツなく紳士的に振舞う。私の好みのタイプ。
 名前、辰巳って言うの。辰巳に私は言う。
「あなた、本当最高の友達だわ。あなたが居ると楽しいもの」
「や!光栄の極み」
「私、さっさとあんなクソ医者と離婚して、あなたと結婚しようかしら。…そのぐらい、私ったらあなたの事を気に入ってるの」
 深夜。私の密やかな声は室内に沈む。彼に微笑みかけた。だが辰巳は目を伏した儘、突拍子も無い事を言う。
「またまた、ご冗談を。…恭子さん、あなたは尾崎の先生の事が大好きなんでしょう?」
「あら、何を言うの。あんな男、好きなワケないでしょ」
「あなたは拗ねてるだけだ。義母さまに呼ばれてやってきても、先生は何をそんなに焦っているのか、過労死寸前、…あなたに見向きもしない。あの人に構って欲しいんでしょう。だから僕を当て馬に使おうとしている」
「そんな事ないわ。私、あなたの方が好きよ」
 辰巳に近づいて私は彼の胸板を指でつつ、となぞる。辰巳は喉の奥でくくく、と笑った。私は無視して唇を重ねる。辰巳は抵抗しない。私は、この男をどう篭絡しようか考えながら、頭の片隅では全く違う男の事を想っている。私に見向きもしないあの男。
 部屋は薄暗く、辰巳は椅子に深く腰掛け、ワイングラスを片手で弄んでいる。あの姑は寝ている、あの男は今日も私の所へはやってこない。
 辰巳の手の中のグラス、その中には血にも似た深紅の葡萄酒が戯れていた。私は無理矢理その逞しい腕からグラスを奪い取って、テーブルに置く。零れたりしたら大変。だってこれからもっと楽しい事をするんだから。
「本当かどうか、試してみましょうか…?あなたへの気持ち」
 唇を寄せる。どうして私が。あんな男を。あの男が憎い。
「フフフ、頑固な方ですね。あなたは本当の自分の気持ちに気付いていないだけだ。目を背けているだけだ」
「違うわ」
「いいえ、もう一度言いましょう、あなたは先生の事が好きなんだ。だから、彼に振り向いても貰えない今の状況を嘆いている」
「…違う」
「だから、彼に振り向いて貰おうと、ヤキモチをやいてもらおうと、僕と関係しようとしている。あなたの心、…今先生の事を思い浮かべてるでしょう。僕と対峙しておきながら」
「違うったら!」
 違わなかった。指摘され私は酷く動揺する。拳を握り締める。辰巳は更に笑う。
「本当に、人間とは哀しい生き物ですね。いつだって自分の本当の願いに気付かない。そして罪にも。僕はそんな貴方たちが愛しくまた憎い。僕らは、いつだって自分の償い難い罪にも浅ましい欲求にも自覚的だというのに」
 辰巳は笑う。私には何の話かわからない。
 言葉だけが脳内を駆け巡る。
 私、辰巳、…あの男。

 本当?本当に?私はあの男を愛しているの?あんな、どうしようもない男を、愛していると?
「そんなワケ、ないじゃない」言いながら、私の心は戦いていた。
 …何も、違わなかった。その通りだった。漸く気付いた。私は彼を愛していた。溝辺町に引っ越したのは彼が恋しかったから。あの姑のウソが発端だとしても、村に行ける口実が出来て、あなたに会いに行ける口実が出来て私は本当は嬉しかった。その癖、あなたはどうあっても私に見向きもしないから、この男を利用して振り向いて欲しかった、私は、私は…
「僕、お腹が空いたんです。お相手お願い出来ますか?」
 誘ったのは私からだったけど、私はすっかり動揺していてもうそれどころじゃなかったの。だから、ハッキリ、「離して」って言った。そうすると、彼は私の手首を掴んだ。
「離して!」
「何を今更。最初に誘ったのはあなたでしょう?」
 そう思うと急に恐怖が…あの人じゃない、違う男を目前としている恐怖、そして、辰巳の瞳が奇妙に光る。全身に鳥肌がたつ。恐ろしい。ちらり、と覗いた牙は人間のものにしては長すぎる事に私は気付く。「…あなた…!」彼は獰猛に哂う。既に瞳が人間のものでは無かった。これは誰?人間?後退る。怖い。助けて、と心の中で呼ぶ名はあの人のもので。
「そして、気付いた時にはもう遅いんです、人生とはそういうものだ。それにしても、最後まで嘘吐きでしたね。まあ、斯く言う私も───」
 あなたの事をあの男への当て馬にするつもりでしたから、これはお互い様でしょう。

 彼が何を言ったのか解らなかった。あの人の名前を呼ぼうとしたその瞬間、首筋に鋭い痛みが走ったかと思うと、すぐに何も分からなくなった。ばかね、私、名前を大声で叫んだところで、あの人が私の元へ来る筈も無いのに。

 

 

 

 

 

 それからどうなったのかはよく覚えていない。
 ただ、意識がはっきりと覚醒した時には、私は医院のベッドの上で、暗闇の中、縛り付けられていた。
 私、どうなったのかしら。ここはどこ?あの人の病院?助けにきてくれたの?

 そしてあの人が部屋に入ってくる。私を見て、何故か安堵した笑みを浮かべる。でもその笑みは、私が意識を取り戻した事に対する安堵じゃなかった。私の分からない言葉を彼は喋る。

『よし、無事にサンプルの確保は達成されたようだな』

 

 涙がこぼれた。予感に戦慄した。

 ねぇ、どうして私縛り付けられてるの。ここはどこ。私、どうなったの。あなた、どうしてそんな表情をするの。早く解放してよ。ねぇ。ねぇってば。愛しているの。漸く気付いたのよ。私、貴方を愛しているの。愛しているわ。でも言葉が出ない。

 痛い。

「心配するな」

 痛い。

「すぐに」

 痛い。

「眠らせてやる」

 

 

 終わる事の無い苦痛。激痛。恐怖。愛しているのよ。愛し…て…

「やっ…めっ…」
 やっと声が出たものの、すぐにガムテープで口をふさがれる。どうして。どうして。私が何をしたというの?これは何の罰なの?あなたを裏切ってきた罰なの?でも私は漸く気付いたのよ。あなたを愛しているのよ。お願い聞いて…やめて…苦しい苦しい痛い苦しい
 許して。
 許して。


 許して…。


 

 

 言葉は届かず、低く独り言を呟きながら私を切り裂く男の虚空の眼窩に砕け散る。
 私は今、バラバラに引き裂かれてゆく。

 

 2010/11/11