滑らかに紙上で踊っていた鉛筆がふと動きを止めたが、静信の眼球の裏にはある心象風景が広がっている。静信が黙って目を瞑ると一層鮮やかにその景色は思い起こされる。

 

 

 

 

 

 

 …閑散たる曠野。月は出でても太陽は無い。ただ闇とも光とも断絶出来ない昏黒が、不思議に明るくその曠野を覆っている。大地はその昏黒の下で沈黙した儘冷たく凍えてゆく。…

 何故、自分がこのような景色を映像として捉えているのか、静信には解らなかった。曠野など見た事が無い。それでいて今静信を捕らえ離さない心象風景は、時を刻んでいる。…息づいているのだ。確実に、静信の中で。

 

 

 

 

 

 縁側に向かう方向で原稿用紙に向かう静信、部屋の灯りに背を向けている為、自然と手元は暗くなる。

「居るか」
 聞き覚えのある声で静信は意識を浮上させ、そして顔をあげると、そこには幼馴染が立っていた。
「また、そんな所でチマチマ物書きか。だから目が悪くなるんだ」そう言い、彼はニヤリと笑う。今日も白衣の儘だ。
「敏夫」
「休憩中がてら、執筆活動に精を入れてるらしい我らが若御院の御尊顔を伺い奉ろうと思ってな」
「久しいね。僕は元気だよ」
 軽口を叩く笑顔の敏夫につられて静信も微笑む。
 敏夫は、つい二年程前に村に戻ってきた。それまで尾崎医院の医師を務めていた彼の父親が亡くなって、跡を継ぐ為に其れ迄勤めていた大学病院を辞めて外場に戻ってきたのだ。
「今までずっと診察だったのかい?」
「まぁな。診察っつーか、ジジイババアの腰が痛いだの関節が痛いだののぼやきを聞いてきただけだけどな。…煙草吸っていいか?」
 答える間も無く、敏夫はすぐに白衣のポケットから取り出した煙草を銜え、ライターで火を点ける。その微かな灯火を見詰めながら、思わず、静信は敏夫に訊く。
「今、恭子さんが来てるんじゃないのか。寺になんか来て、いいのか」
「…言うな。思い出したくない」
 何があったのか。
「どうにも、アイツとウチの母親は何をしたって折り合いが悪いらしい。修羅場だよ修羅場。火の粉を被りたくない」
「…つまりは、僕の所に避難してきた訳だね」
「そういう事になるな」敏夫が悪びれもなくしれっと答え紫煙を吐き出した。ただしこれは溜息交じりかもしれなかった。
「煙草、それ吸い終わったら帰りなよ。孝江さんと恭子さんが心配するよ」
「…ケチ」ぶうたれ、まるで子供の頃と何も変わっていない物言いに、静信こそ溜息を吐く。

 ひょい、とその手が静信の手元の原稿用紙を拾い上げた。敏夫が訊ねた。
「今度は何を書いてる?」
「雑誌のエッセイだよ。この村の事を記述しようと思っている」
「ほぉ。そいつは面白そうだ。なになに?」
 ───村は死によって包囲されている。

 この冒頭の一文を拾い上げたのだろう、敏夫の目が細められた。
「なんだぁ、この始め方。まるっきりホラーじゃねぇか」
 静信が苦笑した。
「まずは村の起源から、と思って」
「もうちょい明るいカンジで書けよ。うまく村の宣伝になりゃあ、村もちったぁ賑やかになるんじゃないのか?」
「敏夫はもっとこの村に活気を灯したいの?」
 目が合う。
「…ま、いいけどな。おれは理系でおまえは文系、考える事も性格もおれたちゃ丸っきり真逆だ。文章の事はよく分からないから、お前に任せる。文章のスペシャリストのお前に」
「…」
「どうした、黙り込んで」
「僕も良く解らないんだ、未だに。小説家の癖に」
「何が」
「文章。書くという動作の効用。そして僕がその行為に拘る動機も、目的も、…僕は何故小説を書いているのだろうと」
 小説というのは不思議なものだ。
 何か書こうと思い立てば霧散する。文字にしたその瞬間、何かが泡沫となって空中に消滅する瞬間に静信は気付いている。此処に書き言葉の限界が在る。だが、書かずには居られない、とも同時に思う。書かなくては、と思う。矛盾し傷つき背負わされた絶望と失望、そしてそれの間を彷徨いながらも続いていく、終わりの見えない試み。
「おれが知るか。書きたいから書くんだろう。おれは人を救いたいから診察する。お前は」
「僕は?」
 口篭る敏夫を見ていると、まるで自分の中の霞が晴れていくように意識が明瞭に、清澄になっていくのを静信は感じた。


 この行為───これは、恐らく生の縮図なのではないか、と思う。

「書く事によってカタルシスを感じたいんじゃないのか。お前の小説はいつも、何つーか、小難しいってか哲学的でシリアスな…まるで迷宮入りするような。そして何時も其の儘終わる。報われない儘」
「そう…だね」
 苦笑した
静信を慰めるように、白衣の幼馴染は更に続ける。
「まぁ、おれには正直チンプンカンプンな世界だが、悪くはないと思うぜ。…エッセイ、終わったらまた小説書くんだろ?」
「ああ。今構想を練っている。『創世記』の…カインとアベルの話」
「また暗い題材だな」
「昔から不思議でならなかった。何故カインは弟を殺傷しなければならなかったのか。何故カインは神から愛されなかったのか。…弟を殺した罪に対する罰が、『死』ではなく『生』なのか」
「じゃあ、お前はその昔からの疑問とやらに正面から取っ組み合って、自分なりに悩み苦しみ“答え”を見つける為にそれを書く訳だ」
 敏夫が足元の砂利を踏む。彼はいつの間にか縁側に座り込んでいる。
「おれが昔から不思議だったのは、…お前だ。そのカインとアベルの話にかかわらず、お前がずっと求めているその“答え”ってのは何なんだ?」
「何?」
「お前は何時も何かを探しているように見える。その何かを、“答え”とやらを見つける為に、小説を書いているんだろう?それは一体何なんだ?」
 敏夫の視線が、剥き出しの左手首に注がれている事に気付き、静信はごくさり気ない動作を装って左腕を膝元に引き寄せそれを隠す。
「…何だろうね。僕にもよく分からない。僕はまるで自分の事が解っていない…“それ”が、今の僕に見えていないものであるのは確かなんだろうけど」
 当たり前の事を言っているな、と静信は自嘲した。今の自分には到達出来ない高みにあるからこそ、見えていないからこそ、己はこうして彼が指摘する通り探し彷徨っているのだろうに。

 

 それは例えば、…光明。昏黒の曠野の中を照らす一筋の明輝。
 否、それは何も光で無くてもいいのだ、恐らく。この胸に巣食う空洞、その一点に何かしらの名を与えたいのだ。
 例えば理由を。
 生という営みに近似した『書く』という行為によって、己はそれを得ようとでもしているのか。あの日、一切の躊躇いも無く手首を切った、この右手…

 

「バカだな。それが自分から光に背ェ向けてる奴の台詞かよ」

 ドキリとする。
「次会う時は視力検査してやる。それが嫌なら、そんな光源を自ら遮るような所で物を書くな」
「…そうだね。気をつけるよ」
「あと、あんまりウダウダ考えないこった。お前は頭を使い過ぎだ。時には自堕落に、ズルする事、近道する事、自分に甘くする事も覚えろ。それが『大人になる』って事だ」
 敏夫は、この忠告が全く受け入れられない事を承知で言っている。だからこそ、静信は、その唇が銜えている煙草が燃え尽きようとしている今、家へと帰るべく歩き出した背中を呼び止めずに居られないのだ。
「敏夫」
「なんだよ。律儀にも約束はちゃんと守ってやってんだろうが。退散しますよ」
「有難う」

 彼は返事をせず、振り向きもせず、黙って手をひらひらと靡かせただけだった。