残暑は未だ厳しいものの、早朝ともなると少し冷える。空は青い。だが鱗雲が微かに見てとれる。───秋の徴候だろう。

 夏野はローファーを履き、制服の襟元をもう一度整え、玄関のドアを開ける。
「行ってきます」
「もう行くの?今日は随分と早いのね」
 梓が見送りに外まで出てきて、自転車の籠に鞄を置いた夏野の姿を見て、声をあげた。
「あら、またママチャリ?自分のマウンテンバイク、修理終わったんでしょう?」
「いいんだよコレで。…使っていいでしょ?」
 梓が頷き、夏野が僅かに微笑んで自転車を漕ぎ始める。早朝の空気に髪が靡いた。

 山々の稜線の彼方、その上に太陽が真っ白く輝いている。夏野の顔を照らしているその光輝に、夏野は少し目を細め、そして風に身を任せた。

 

 

 

 

 

 目的地までは遠くない。ブレーキをかけると、その家屋の前で静かに自転車から降りる。
玄関のチャイムを押す事は、早朝ともあって少し躊躇われた。何か良い方法は無いかとその場で少し考え込み、徐ろに、足元にある丸く極小の礫を拾い上げる。
 其の儘少し場所を変えた。彼の部屋は二階にある。その窓に目掛けて、夏野はその小石を下から放り投げた。コツン、と音がして小石は落ちる。
 ───反応は、無い。

(もう一発、か…)
 夏野はまた足元から小さな礫を拾い上げ、もう一度その窓に向かって放り投げた。再度命中し、コツンと音がする。
 数秒待つと、ガラガラ、と緩慢に窓が開けられた。半袖のTシャツを着た徹が、いかにも眠そうに目を擦りながらひょこっと顔を出す。その格好できょろきょろと不思議そうに辺りを見渡す徹に、夏野が「此処だよ」と小さく声をかけた。
「…なつの?」徹が瞬きする。
 夏野は、武藤家の家人を起こしてしまわないように、黙って徹を手招きする。徹は相変わらず怪訝そうな顔をしていたが、とりあえず頷くと、窓を閉めた。夏野はその様子に少し笑うと、武藤の家の玄関前に停めておいた自転車の元へと戻る。

 

 五分程経った後、徹が慌しくバタバタと駆け出してきた。夏野と同じく、制服姿できちんと鞄も持っている。夏野のジェスチャーは無事通じたらしい。
「歯磨きした?洗顔は」
「や、それよりさ、」
「寝癖…いや、それはいつもの癖っ毛か。ネクタイ曲がってる。きちんと締めろ」
「いやいやそうじゃなくて…そうじゃなくてね」
 甲斐甲斐しく徹の襟元のぐちゃぐちゃネクタイを整え始めた夏野の前に、徹はしどろもどろだ。一度結び目を解き、夏野は白い指を繊細に動かし綺麗に結び直しをし始める。
「何がだよ。何か不満か」
「不満っつか、どうしたん?こんな朝早くに。葵も保も寝てたぜ。親は辛うじて起きてたけど」
「最近運動不足なんだ〜って言ってたじゃん。だからおれがあんたの為に、最適運動プログラムを発案した」
「ハイ?」
 頓狂な声で聞き返す徹に、夏野はしれっと「コレだよ」と自転車を指し示す。徹のネクタイは、もう既に綺麗に修正されている。
「…なつのくん、どうゆうこと?」徹の笑顔は固まった。
「いいから乗れ。当然ながら前な」
「…つまり、また二人乗りで漕げと」
「そういう事」
 暫しの沈黙。
「…最適運動プログラムってか、それってお前がラクチンしたいだけじゃねーの?」
「言いがかりはやめろ。おれは徹ちゃんのことを思ってだなぁ」
「さては〜気に入ったんだろ。二人乗り」
「別に」ぷい、とそっぽを向く夏野の様子に徹は笑った。
「素直じゃねーなぁ。…ったく、夏野の頼みとあらば仕方ない。いいぜ、乗れ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ったくさ、わざわざ自分のマウンテンバイク置いて、二人乗り出来るママチャリ持ってきちゃって。照れるじゃねーかぁ」
「何でだよ」
「そんなにおれにシて欲しかったわけな。こいつぅ」
「妙な言い方すんな…」
「にゃははは、だってそういう事だろ?」
「…バス待ちの時の視線がうざったいんだよ」
「視線?」
 夏野は答えなかった。徹がペダルを強く踏み込む。


 坂を緩やかなスピードで下っていた。木漏れ日の先には陽だまりがある。徹が目を細めて嘆息した。
「今日も暑くなりそうだなぁ」
「口開けて」
 夏野の声に、ほぼ条件反射のような形で徹が口を開けると、後ろから、細切れに千切られたパンが夏野の指によって放り込まれた。
「むぐ」
「朝飯食ってないんでしょ。とりあえずこれで凌いで。向こうついたらちゃんと飯食わしてやるから」
「もがもぉ〜!!!(夏野ぉ〜!!)」
 パンを頬張っているために呂律が回っていないが、夏野にはこの感激の台詞が届いたらしく、徹の後ろからは「だから、名前で呼ぶなって」と声がする。
「朝飯、おれも食ってない。多めにパン持ってきたから、向こう着いたら分けてやる。だから気張って漕げよ。ちんたらしてたら食う時間なくなるぜ」
 徹がパンを嚥下し、言う。
「夏野、あとで抱きついていい?おれ猛烈に今お前の優しさに感動してるんだが」
「やだ」
 酷ェよ夏野ぉ〜。喚く徹に夏野が溜息。
 

 

 


 

 

 

 外場の朝は早い。元より年寄りが多い村だ。其処彼処で、談笑を交わしているもの、畑に出ているものの姿を見かける。徹の姿を見て、手を振る人影もある。その度、徹は人懐こく手を振り返した。

 


「お前、バイクの免許取るといいかもな」と徹が笑いながら言ったので、夏野はぼんやり景色を見つめていた瞳を、徹の背中に移す。
「バイクだったら、肉体労働せんでも颯爽と風と一体化出来るだろ」
「バイクねぇ。…大学受かったら免許取るかもな」
「じゃ、おれは来年一足お先に車の免許取るからさ。そしたら乗せてやるよ。車もキモチ〜ぞ〜。かっ飛ばした時の快感はそりゃあもう」
「…何か、あんたの運転する車、乗りたくない」
「何でだよぉ〜折角乗せてやるっつってんのにぃ」
「事故りそう」
「何だ。心配性だなぁ、夏野は」
 それなら、今もちゃんとおれに掴まってなよ。

 徹が言うと、数秒置いて遠慮がちに肩を掴む腕があった。
「肩…じゃなくて腰に腕回した方がいいんじゃないのかぁ?」
「徹ちゃんが安全運転してれば、問題無いだろ」
「注文が多いなぁ」徹が笑う。
 あち、と片手で額を拭うと、白いハンカチを後ろから差し出された。
 彼は優しい。だから、徹は嬉しい。


 
 幸い、夏野に起こされたお陰で、時間は存分にある。二人を乗せた自転車は、初秋の空の下で、のんびりと時を刻んでいる。