久しぶりに雨が降った為に、この日夏野はバスで通学せざるを得なかった。
雨の日ともなると、車内は少しいつもより混み合う。人ごみを嫌う夏野は、平生よりも少し早い時間にバスに乗る。
徹と同じバス停で、しかも徹の高校と夏野の中学校が近い距離にある為、よく彼とはバスでも顔を合わせた。思わず無言で車内に彼の姿を探してしまう自分を浅ましく思う。
…どうか、している。
外は相も変わらず酷い雨で、止む気配は無いに等しい。
一番後ろの席に乗り込むと、漸くバスが発車した。少し揺れる。
車窓から景色をぼんやりと見つめたが、硝子は雨粒で曇っている為に視界は不明瞭だ。その中でも、夏野の眼を惹き付けたのは道を歩く、赤い傘をさした、セーラー服の女子だった。向こうも夏野に気付いたようで、ふと顔をあげてバスを見た。
一瞬視線が交錯したが、夏野は何も見ていない振りをしてすぐに車窓から目を離した。そして舌打ち。
「…またか」
───付き纏われていた。
ここの所、バス停でバスを待っていると、少し離れた距離からじっと夏野の事を見ている。酷い日になると、夕方、家の最寄のバス停にも居る。鞄を持って、制服姿の儘、少し離れた所から夏野をじっと見ていた。
外場の中学校に通っているらしい、セーラー服はその事を物語っている。声を掛けてくる様子も無い。同じバス待ちかと思ったが、それもどうやら違うらしい。彼女はいつもバスには乗らず、そして、外場中学校の生徒ならばわざわざバス通学する必要も無いように思われる。
痺れを切らした夏野が、ある日訊ねた。
『…あんたさ、誰。おれになんか用』
驚いたように、少女が少し身体を強張らせた。
『ゆ、結城…夏野くん…だよね?都会から来たっていう』
『そうだけど』
『私、清水恵っていうの。下外場に住んでて、結城くんと同い年なんだけど…』
『下外場?へぇ、なら学校から近い癖に、わざわざ中外場のバス停まで毎日朝早く来て、尚更何の用事があるんだ?』
少女はどこかおかしかった。夏野のこの問いには答えずに、自分がこの村に辟易している事、都会へ出たい事のみを只管繰り返した。
結城くんも、こんな村嫌いでしょ?嫌いなのよね?あたしもよ。私たち、仲良くなれると思うわ。
一抹の薄気味悪ささえ夏野は抱き、その時は黙ってバスに乗り込んだ。恵という少女は車窓越しに夏野に注目した儘だった。其の儘バスが発車する。バスのバックミラーには、夏野を見詰めた格好で立ち尽くす恵が映っていた。
そんな日が何度か続いた頃、夏野はもう恵と意思疎通を交わす事すら避けるようになった。…関わりたくなかった。
だがそれも、徹が傍らに居る時であれば余り気にならない。馴れ馴れしく肩を組んでくる徹を見ると、彼女はぐ、と聊か困惑したような顔で唇を噛み姿を消す。
だから夏野は徹と共に居る事を好む。最近では、ほぼ毎日のように顔を合わせる。だから、この間も、自転車をおしながら徹の家へ押しかけた。
───否、これは倒錯した論理だ。
おれは、徹ちゃんの隣という今の居場所を心地よく思っている。その事を認めたくないだけだ。
雨は止む事なく降り続いていく。夏野の心にも、そうしてゆっくりと何かが降り積ってゆく。不安の種が育ち、弦が夏野の身体を縛る。棘が身体に喰いこむ。…苦しい。
仲良くなるつもりなんて無かった。
帰りの車内も、そうしてうとうとしていた為に、夏野は自分を見下ろす影に、ぎりぎりまで気付かなかった。
『ラッキー、夏野じゃん。今朝会えなかったからさ、寂しかったんだよねぇ』
───…徹ちゃん
『何だよ、弱った顔しちゃって。何かあった?』
別に
『お前の「別に」はアテになんねぇもんなぁ。よし、今日もウチ遊びに来いよ』
…今日は、いい
『何で?遠慮すんなって』
肩を抱いてくる腕を払った。自分で「触るなと」言い放っておきながら、夏野はその己の声の刺々しさに一瞬戸惑う。
これはなんだ。コントロールがきかない。ただ、酷く混乱していた。
どうかしている。
どうかしている。
こいつの…徹ちゃんの…あんたのせいだ。
「…ちょっと熱いな。大丈夫か?」
徹は夏野の上に屈みこみ、夏野の額に手を当てる。随分冷たい手だな、とぼんやり考えから、これは自分が熱いからかと夏野は気付いた。
「お前、熱あんじゃないの。目も潤んでる」
「…構うな」
「ほれ、いいから、おれにもたれて寝ろ。着いたら起こしておんぶして家まで連れてってやるから」
そっと引き寄せられると、徹の匂いが薫る。夏野は「構うなって、」と呟きながらも其の儘目を瞑る。自制がきかない。意思と身体の統制が追いついていない。
優しく髪を梳く指。
雨は降り止まない。車窓に映りこむ二人の姿は、ひっそりと静かに寄り添っている。雨が一層激しくなった。二人の像は雨粒にかき消え、焦点を失い、やがて見えなくなった。
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