夏野が風邪をひいた。
徹が彼に最後に会ったのは、二日前、帰りのバスの車内だ。その日は酷い雨で、気温も低かった。あの茹る夏の暑ささえ幻だったのではないかと思わせる程の寒さが一挙にやってきた。車内の硝子窓さえ白く煙っていた。窓にへばりつく水滴は、風に振り切られて霧散し千切られ、無残にも細かく散ってゆく。
夏野は学ランを羽織っていた。その姿が目に新しくて、そしてその日初めて会えた事が嬉しくて、徹は笑顔で彼に近付き、その顔を覗き込む。
───ラッキー、夏野じゃん。今朝会えなかったからさ、寂しかったんだよねぇ。
彼は細い声で徹ちゃん、と返事を返したが、その瞳は潤み、いつもならば白い頬は僅かに紅潮していた。徹は動揺しすぐに心拍は跳ね上がったが、気取られまいといつもの笑顔を浮かべた。
何だよ、弱った顔しちゃって。何かあった?
別に、と答えた夏野の顔は、相も変わらず徹の目を否応なく惹きつける。家へ遊びに来い、と誘い、肩を抱くと、腕をぴしゃりと強く跳ね除けられた。
ここ最近、夏野に拒絶される事は無かった。最初の頃は些細なスキンシップでさえ本気で嫌がられていたものの、近頃では、悪態をつかれる事はあっても、少し叩かれる事があっても、それは彼の本気ではなかった。
久方ぶりのその感触に、瞬時徹が固まる前に、腕を払い除けた当の夏野の方が、一瞬先に我に返ったらしく傷ついた瞳をした。やり過ぎた、と思ったのか。そんな事で徹が彼の事を嫌いになるべくもないのに。
(…何て顔してんだよ)
───目の前の細躯を抱きしめる事への衝動。額に手を当てると矢張り熱い、だが徹も彼が感じているだろう眩暈を別の形で感じている。
無理矢理自分の身体にもたれさせ、寒くはないかと更に身体を寄せた。呼吸は不自然に速く、そして浅い。うわ言のように、寒い、と夏野は呟いたが、首筋には汗が光っていた。ハンカチで拭ってやる。彼は目を瞑って、黙って徹に凭れかかっていた。
車内には二人の他、客は誰も居ない。バスが揺れる。夏野の息遣いを聞きながら、徹は黙って窓を見る。視線を落とせばすぐに、彼の震える睫が、彼の湿った唇が、彼の今は上気した桃色の項が目に入るからだ。
「…ん」
微かに唸った夏野の頭が、徹の胸元へと傾けられる。更に距離が近くなる。ふわり、と徹の鼻孔を馨りが擽った。徹は、相変わらず、黙って窓の外を見ていた。
「…き、兄貴!」
振り返ると拗ねた顔をした保が居た。何時の間に部屋に入ってきたのだろう、そして何時から徹の名を呼んでいたのだろう。徹にはわからない。
「ん、保か。どした?」
「どした?じゃないよぉ兄貴。さっきからずっと呼んでんのに、返事無いんだもん。漫画借りにきたんだけど」
「おお、いいぞ〜。持ってけ持ってけ」
徹が、無心でゲームのコントローラーを弄る後ろで、保が漫画を棚から引き出していた手をふと止めた。
「…兄貴さ、どうしたん?昨日、今日と、なんか元気なくないか?」
「え?そうか?」
「そうだよ。話しかけても、何かさ、上の空っつーか…」
「そうかなぁ」
「夏野の事、気になってるんじゃないのか」
徹の操作するテレビ画面上の戦闘機が、ボカーンと盛大に爆破された。ゲームオーバーの文字が画面上にでかでかと表示された。悲惨なメロディが流れる。
「…ほぅら、図星じゃん。兄貴って、ほんと分かり易いのな」
「…」徹は、背中に保の刺々しい視線を感じて、コントローラーを握り締めた儘動けず固まる。
「お見舞い行けばいいじゃん。あいつの事家まで送ってやったの、兄貴なんだろ?」
「…でもなぁ」
「何だよ」と保。
「まだ風邪治ってなかったら、邪魔じゃん。あいつ、あれでいて案外人に気ィ遣うからさ」
「ええ、あの夏野が?うそだぁ」
のろけも好い加減にしろよ、と保が大仰に笑う。
徹はゲーム機の電源を切り、立ち上がって伸びをした。保は、漫画を片手に抱えて、「さっさと行くなら行ってきなよ、兄貴」と少し笑いながら部屋を出て行く。
一人になった。
静かになった。
部屋の窓硝子に、薄らと徹の姿が映りこんでいる。
バスに乗っていた。 授業は全て終わり、帰宅部の徹はいそいそと鞄を持ち下駄箱に赴く。友人たちが軽やかに駆けながら、徹に別れの挨拶をした。彼らは色とりどりのユニフォームを着ていた。サッカー部、バスケ部、今日も部活動に励むらしい。その色は酷く眩しい。
また明日な、口々に言う彼らに徹も笑いかけ、 そして気付く。 …徹の眼球は乾いていて、その色は映りこまない。 バスに乗っていた。 中外場のバス停で、少女の姿が徹の視界に入った。清水恵だった。結城くんは何処、と訊いてきた。彼女と面識があったのかとぼうっと考えていると、急かされる。───何処って聞いてんのよ、早く答えなさいよグズ。あたし、あんたのそういう所が大っ嫌いだわ。調子に乗って結城くんにも随分と馴れなれしいし、弁えなさいよ。
ここまで一呼吸で言い切ってから、清水はフンと鼻を鳴らして徹を睨めつけ、そして彼女は足を踏み鳴らし徹に背を向けた。言い返す暇も無かったが、言い返すつもりもなかった。 バスに乗っている。 保に諭されてから更に一日経ち、最後に彼の姿を見たのは三日前になった。
バスの中は、相も変わらず閑散としていた。徹の他には、二人の乗客しか居ない。あの雨の記憶でも、乗客は自分と彼しか居なかった。
記憶を辿り、徹は、三日前と同じ席に座った。徹の右隣に彼の姿はある。今は、その場所を徹のショルダーバッグが占領していた。窓には徹の姿が映っている。
その徹の像の横に、“彼”が映りこんだ。少し速い息遣い、鼓動、熱にうかされた身体、少し開いた唇、薄く上下する胸元、馨る髪の匂い、閉ざされた瞳を彩る睫、細い肩、くっきりと浮き出た鎖骨、汗で髪が張り付き薄らと濡れた項、「…」
黙って徹は窓に手を当てその像を掻き消した。否、車窓に映る其の幻影を、其の虚像を捕らえようとしただけかもしれない。掌をそっと離す。其処には矢張り徹以外誰も居なかった。 得体の知れない何かが胸に巣食っている。ぼんやりと徹はそう思う。
保の何気ない「お見舞いに行けば」という一言に渋ったのは、夏野の為を思っての事だけではない。 …きっと、おれは今夏野の顔を見る事を恐れている。 そう理解しつつも、徹の足は、夏野の家へと向かっていく。
夏野は自宅に徹を招き入れる事を何故だか好ましく思っていない様子だった。故に、夏野の家の場所や外観は知っていても徹が中に入った事は今まで一度もないにもかかわらず、指は躊躇いなく自然にチャイムを押した。暫くするとぱたぱたと駆ける足音と共にドアが開けられ、夏野の父親が出てきた。徹の顔を認めると、あ、武藤くんだよね?と笑顔になる。彼の父親と、徹は面識があった。以前夏野が越してきたばかりの頃、家が近所ともあって何度か顔を合わせ、挨拶も交わすようになっていた。
───この間はどうも有難う、夏野をわざわざ家まで担いで送ってくれて。さ、上がって上がって。 温かく歓迎してくれる夏野の父親に、徹は、いえ、と一歩下がる。
迷惑になるのもアレなんで、帰ります。…夏野くん、具合どうですか。
───ああ、大分元気になったみたいだよ、…あ、ほら夏野。武藤くんがお見舞いに来てくれたぞ、と彼は後ろを振り向いて言う。Tシャツにスウェットパンツ姿の夏野が立っていた。徹ちゃん、と夏野は少し驚いた風に眼を瞬かせ言い、徹はそれに返事も出来ず立ち竦む。
其の後夏野と彼の父親が二、三の会話を交わし、結局徹は夏野の部屋に招かれる事となったが、それがどういった経緯によるものなのか、徹は覚えていない。ただ、目の前の彼と記憶の中の彼が重なる。眩暈… …ここで待ってて。今麦茶と菓子持ってきてやるからさ、 自室まで案内し、部屋のドアノブに手をかけながら言う夏野の手首を掴んで無理矢理引き寄せ、掻き抱いた。持つ手を失ったドアが反動でゆっくりと閉まる。バタン、そして部屋には二つの影しか残らない。夏野はその抱擁からぬけ出そうと身を捩ったが、その抵抗はささやかだ。
「何だよ。苦しいから離せって」
「…」
「徹ちゃん?」
「…夏野」
心配したんだ、やっとの事で搾り出した徹の声は酷く掠れて夏野の耳朶を打つ。おずおずと、徹の背中に腕が回された。
「…今日は、大事とって休んだだけだから。明日から学校も行くし、心配すんなよ」
「…」
「聞いてる?」 徹は返事をせず、掻き抱いた細躯からは穏やかな温もりと鼓動が伝わってくる。石鹸の匂いがした。世界に色が漸く灯り始めるのを徹は感じていた。 夏野、おれは。 言葉は出ず、喉に秘される。だがそれでいい。どうでもいい。この温もりさえ側にあればいい。
徹の腕の中で身動きもせず黙っていた夏野の耳元で、そして徹は言う。
「…ごめんな」
「何が?」
「お見舞い、手ぶらで来た」
「いいよ、別に。最近のおれなんかいつもそうだろ。…明日、バスに何時に乗る?」
「迎えに行くよ」
答えると、夏野が微笑む気配がする。…病み上がりじゃあ重い荷物持っての一人通学は辛いだろ、と舌に乗せた言葉でさえ、ただの言い訳に過ぎない事に徹は気付いた。
そしていつでも徹を赦す彼は、徹が寛恕を願っても願わなくても、きっとそれすら微笑んで赦免するのだろう。
夏野は優しい。だから、徹は哀しい。
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