「恵ちゃ〜ん!!」
(げ、…かおりの声だわ)
恵は気付かない振りをして歩き続けた。学校の教室に入ればこっちのものだ、と早足で急ぐ。それでも後ろから足音は追ってくる。負けじ、と恵は早歩きするが、それも段々と競歩じみてきた。足音が近付いてくる、恵はとうとう走り出すも、それも少し遅かったようだった。
「つっかまーえたっ!おはよ、恵ちゃん!」
「なっ…離れなさいよ!」と、恵は腰に後ろから抱き付いてきたかおりをべりっと剥がした。当のかおりはケロッとした顔で、眦を吊り上げる恵を笑顔で見やり、隣をニコニコ歩いている。
「今日も恵ちゃんの家まで迎えに行ったんだよー?なのに、もう家出たっていうから、走ってきたの」
「あらそう。それは残念だったわね」棒読みで答えながら、恵は、そりゃあんたに会いたくないからよ、と胸中でツッコミを入れる。かおりはそんな事は露知らず。
「あのね、凄いんだよ。昨日、都会から外場に引っ越してきた人達が居るんだって。本当珍しいよね〜。前代未聞だって、皆ちょっとした大騒ぎだよ」
そこで初めて、恵がかおりの顔を直視した。
「…何それ。都会から?ここに?何で?」
「さあ…理由は知らないけど、何でも染め物とか家具とか作る工房をやってるんだって。それで、今中三の男の子も居るみたいだよ。恵ちゃんと同い年だね」
───そろそろ、外場中(※外場中学校の略)にも来るんじゃないかな? 朗らかに笑うかおりの声を聞きながら、恵は仏頂面になる。
…意味が解らないわ、何で都会からこんなド田舎に。 でも、いつまで経ってもその男子は外場中学校に転入してこなかった。何でも、わざわざ溝辺町の中学校に通っているらしい。恵は益々混乱する。都会からこの辺鄙な山中に引っ越してきて、そして遠い中学校に自ら通学する同い年の彼、恵は顔も見た事が無い。 だから、少し気になっていたのだ。
自分の恋焦がれる都会の空気を纏っているだろう彼は、どんな顔をして、どんな声で話し、どんな風に笑うのだろうか。そう思って、中外場へふらりと恵は足を向けた。そして、そこで、恵は彼は初めて其の眼で見た。 「…!!」 その日から、恵の網膜には、彼の姿が焼き付けられて離れなくなった。 「最近、恵ちゃん、朝どうしてるの?家に迎えに行っても、いっつも『恵ならもう出たわよ』って…」
「かおりには関係ないでしょ」 そして恵は今日も早朝に出て、中外場のバス停まで行き、彼の姿を遠くから見つめる。通った鼻梁、切れ長の瞳、村のさえない男子とは似ても似つかない。テレビの芸能人のように眉目秀麗だ。
…話してみたい。きっと、あたし、あの人と気が合うわ。
恵はその背後に都会の風を感じている。恵が恋焦がれてやまない都会から来た少年は、その内恵に気付き始めたらしく、ある日恵に話しかけてきた。 恵の心臓が高鳴り、止まらなくなる。 『…あんたさ、誰。おれになんか用』
『ゆ、結城…夏野くん…だよね?都会から来たっていう』
『そうだけど』
『私、清水恵っていうの。下外場に住んでて、結城くんと同い年なんだけど…』
『下外場?へぇ、なら学校から近い癖に、わざわざ中外場のバス停まで毎日朝早く来て、尚更何の用事があるんだ?』
恵は必死に訴える。
───結城くんも、こんな村嫌いでしょ?嫌いなのよね?あたしもよ。私たち、仲良くなれると思うわ。 結城は、スウと瞳を細めて恵を見、それから黙ってバスに乗り込んでしまった。恵の心は少し罅割れ傷つく。
(…それでも、私はあなたが好きだわ、結城くん)だってこんなにあたし、あなたに恋焦がれている。 だから、あたし、あいつ嫌いなのよ。 武藤徹。 小さい頃は年が近い事もあって一緒に遊んだりした事もあったけど、それも段々なくなった。だって、あいついっつもニコニコしてて、トロいし、グズだし、勉強も出来ないし、見てると苛苛する。
何だってあんなにずっと笑っていられるのかしら?気味が悪い。だから、なんで、なんで。 なんで結城くんと一緒に居るのよ。なんで私の嫌いなあんたが、結城くんと仲良くお喋りしてるのよ。許せない。結城くんはあんたのじゃない。どっか行ってよ。 恵は機嫌が悪かった。一日たりとも結城を見なかった日はここ数日皆無に等しかったのに、ここ二・三日、彼の姿を見ていない。朝にも放課後にも彼の姿は認められない。仕方なく男に話しかけた。その日も、奴の隣には愛する彼の姿は見えなかった。満点の青空の癖に、少し冷たい風が吹いていた。
結城くんは何処、と聞いても男はその日何故かぼうっとしていた。恵は更に腹が立って、あたし、あんたのそういう所が大っ嫌いだわ、調子に乗って結城くんにも随分と馴れなれしいし、弁えなさいよ、と一息で続け、そして睨みつけてやった。男は反論しなかった。またそこが気に食わなかった。
(なによ、なによなによ、あいつなんか…)
「あいつなんか…」
足元の砂利を、ローファーで恵は踏み躙る。 次の日に、日課のようにまた早朝恵が結城の姿を一目見ようと中外場にやってくると、バス停の前に彼がいた。実に三・四日ぶりの邂逅だった。恵の心は躍ったが、しかし、彼は、
…あの男と一緒に。
結城は眼を軽く閉じて、いかにも気だるそうに、立ったまま少し頭を傾け寄りかかるように寄り添うようにあの男の身体に凭れていた。男が何かを囁く、耳元で優しく、そして結城は少し微笑む、男もさも愛しいものを見る目つきで、そっとその細い肩を引き寄せた。 恵は、これ以上は見ていられなかった。さあっと自分でも血の気がひいていくのが解った。気がつくと、走っていた。彼らとは逆方向に。下外場の方角へ。 気がつくと呟いていた。
なによ。なによなによなによあんな奴、どうして私の結城くんと。結城くんは渡さない
あいつなんか、死ねばいいんだわ。 一つの答えが明確に導き出されたように、恵はふと我に返り、立ち止まった。
道の先には誰も居ない。道の後ろにも誰も居なかった。振り返り目を凝らす、只管の田園風景が広がっている。だが、その先に、結城の姿もあの男の姿も見られない。 本当に誰も居なかった。
そう、昔から恵は誰にも理解されてこなかった。お洒落をして外を歩けば笑われる、頼りない癖妙なところで口煩い両親、無理解な周囲の人間、誰も恵を解ろうとしない、 だから恵は。彼を。彼ならきっと、解ってくれるかもしれない、と。 だが恵は矢張り一人だった。
漸く気付いた。
耐えられなかった。 しゃがみこんでいると、肩を叩く指がある。
「…恵ちゃん?こんな所でどうしたの?」
恵は答えない。声の主は解っている。
「あのね、今日もやっぱり恵ちゃん迎えに行ったのに、居なかったから、学校まで時間あったし、恵ちゃんの事探してたんだ。見つかって良かった」
彼女が笑う気配がする。恵は益々惨めな気持ちになって、膝を抱く。そうでもしないと、顔を覗き込まれそうだ。
「恵ちゃん、何で泣いてるの?どうかしたの?」
「…るさいわね」
「ほら、ハンカチ貸してあげるから」
「うるさいって言ってんでしょ!」
大声を出した反動で、恵の喉から嗚咽が漏れ出でた。彼女は何も言わず、ハンカチを受け取ろうとしない恵の代わりに、自分でハンカチを持って涙をそっと拭い始めた。
「寄らないでよ!同情なんかしないでよ!」恵が喚く。
「恵ちゃん」
「何よ、あんたなんか嫌いよ!こんな村、村のやつらもみんなみんな大嫌い!私の気持ちなんて知りもしない癖に!!」
「私は、恵ちゃんの事、好きだよ」
だが、かおりの声は、恵の耳には届かない。
「あいつよ!あいつが邪魔なんだわ、あの男!あたし、絶対負けないんだから!あんたなんかに負けるわけないでしょ、調子乗ってんじゃないわよ!」
「恵ちゃん、朝から大声出したら目立つよ」
恵の嗚咽が秋空に吸い込まれていく。かおりは労わるように慰めるように恵の背中を撫でている。 本当は、恵の隣にはこの少女が居たのだ。
今、恵は一人ではなかった。
だが、未だ気付いていない。
だから、耐えられているのに。 「恵ちゃん、学校、遅れるよ」
「…」
「手ぇ、繋ご?引っ張ってってあげるから」
イヤよ、と恵は言おうとしたが、嗚咽が邪魔をしてうまく声が出ない。かおりが手を引っ張るので、仕方なく恵は立ち上がる。涙に濡れた右手を握られた。空いている方の左手で目元を覆いながら、恵はかおりに導かれる侭歩いた。 太陽はもう上空に上り始めていた。恵は今、かおりに手を引かれて、ゆっくりと陽の光の射す方向へ歩いている。恵が掠れた声で、小さく言った。かおりの耳に届かず、其の儘それは爽暁の空気に消える。眼を細める。涙で陽は優しく揺れていた。
「眩し…」 
2010/11/22
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