夏野が風邪をひいてからというものの、何だか徹が過保護になった気がしていた。夏野にぴったり寄り添い、朝も家まで迎えに来たり、バス停で待っていたり。
病み上がりだった日はまだ解るが、もう風邪が完治してから随分日にちが経っている。そこまで気を遣わなくても、と夏野は思うが、徹は甲斐甲斐しく夏野に付き添ってあれやこれやと世話を焼く。
実はというと、ここ数日、夏野は徹を意識せざるをえない。というのも、徹の様子が前とは少し何か変わったように思えるからだ。言葉を発さず、急に黙り込んで夏野を見詰めていたりする。その視線に夏野が気付き徹に眼を向けるその一瞬前に、徹は何事も無かったかのように夏野から眼を逸らす。それで、何を見てると問い詰めたところで、徹がしらばっくれるのが関の山だろう。
…落ち着かない。
別に何かがあった訳でもない筈なのだが。
初秋の頃、夏の名残の暑日と冬の到来を感じさせる寒日が交互にやってくる。今年は特に例年よりも天候が安定しない。
そして今日は久しぶりの猛暑日といっても過言ではなかった。つい先日まで寒いと思っていれば、今日はこのかんかん照りだ。
襟元をだらしなく緩め、額に汗を浮かべた夏野がとぼとぼと道を歩く。バス停には、案の定徹が居た。片手をあげて、夏野を見て微笑した。
「よ、夏野」
「名前で呼ぶなって。…よく会うな、最近」
「バスの本数少ないからな。時間決まってるから」
───何?おれとそんなに会いたくねぇの?
聞かれ、夏野は、つん、とそっぽを向いた。徹はこちらを見詰めて相変わらず微笑している。
「何拗ねてんだよ。こっち向け」
「うるさい」
「こっち向けって。夏野」
徹の手が夏野の両頬を包み込んだ。夏野が逃れようと身を捩る。
「よせって。ベタベタするな」
「何でそんなにいやがるんだよ」
「暑いんだよ」
「じゃあ暑くない日ならいいのか?」
「言っただろ、人肌に触れられるのが嫌いなんだって」
「この間、バス待ちの時、自分からおれに凭れかかってきた癖に?」
「あれは!あの時は病み上がりで…!」
かっとなって振り向いたのがいけなかった。真剣な徹の顔が間近にある。夏野はぎくりとし、眼も逸らせずに後ずさりした所を、徹が捕まえた。あっという間に夏野は徹の腕の中に閉じ込められる。ぼそぼそと、徹が珍しく低い声で呟いた。丁度呼気が耳朶を震わすようで、夏野が唇を真一文字にかたく引き締める。
「お前に嫌がられると、真面目に傷つくんだが」
「…離せ」
「夏野、…」
徹が何かを言おうと夏野の耳に唇を寄せたその時、夏野が徹を軽く突き飛ばした。徹も逆らわず素直に離れる。
二人の耳に、足音が聞こえたからだ。
案の定、振り向くと、保と正雄が走ってこちらに向かってくるのが見えた。
「兄貴〜!途中まで一緒に学校行こうぜ〜!」
ばたばた保の後を走ってついてくる正雄が夏野の顔を見て舌打ちし、「何で徹ちゃんとオマエが一緒に居るんだよ」とぼそぼそ呟いた。
「悪かったな、あんたの大好きな徹ちゃんとおれなんかが友達やってて」
「ほんとだよ!オマエ、調子に乗るなよ。徹ちゃんはおれの方が付き合い長いんだからな!オマエに特別優しくしてるワケじゃねぇんだよ、徹ちゃんは誰に対しても分け隔てなく優しいんだからな!」
ふと、夏野の琴線に何かが引っかかった音がする。夏野は知らない振りをする。夏野は唇を皮肉げに吊り上げる。
「当たり前の事をわざわざ言うなよ」
「なんだと夏野てめぇぇっ!!」
「ハイハイ、そこまでにしような〜正雄ぉ〜」
徹が正雄を後ろからがしっと羽交い絞めにした。正雄の怒りの矛先が今度は徹に向かう。なんだよ、大体徹ちゃんはいつもいつも夏野の味方ばっかして…!と、正雄の説教をくどくど食らう徹の表情は苦笑いだ。
夏野が溜息を吐く横で、保が夏野に小さく手招きした。正雄たちから少し離れた位置に保は居た。意味ありげに夏野を見てニヤニヤしている。
「なんだよ、保っちゃん。手招きなんかして」
「や、お前さ、アレ見てどう思う?」
「アレって」「兄貴だよ。兄貴の様子見て思う事無い?」「…」
未だに正雄の剣幕に押され気味の徹の苦笑の表情をもう一度盗み見て、夏野が溜息をついた。
「…いや、思う事なんてないけど。いつも通りだろ」
「まぁ、そりゃそうなんだけどさぁ。ここだけの話な」
更に保が小声になって囁いた。
───お前が風邪で寝込んでいる間の兄貴の荒みっぷりの激しいこと激しいこと。何やらせても何話しかけても上の空だしさ。今は夏野復活に伴い兄貴も元気になったみたいだけどな。ほんと、愛されてんのなー、夏野。
「あ、愛…?!」夏野は唖然。対する保はケラケラと無邪気に笑っていた。
「そ、愛だよ愛。兄貴のあの溺愛っぷりはねぇよ本当。よかったじゃん、相思相愛で。お似合いお似合い。ほんとよかったね〜おめでとお〜」
「いいわけあるかぁっ!!」
夏野の大声に、少し離れたところで正雄の相手をしていた徹が首を傾げた。
「ん〜?どうした夏野」
正雄を置いてトコトコ夏野に近寄ってくる徹に背を向け、夏野は早歩きで国道前のバス停へと歩き出す。
「おれ一人で学校行くから!」
「ええ!急にどうしたんだよ夏野ぉ〜!」追いかけてくる徹に、ぎょっとした夏野も走り出した。そして叫ぶ。
「名前で呼ぶな!そんでついてくんな!」
「なんでだよ〜寂しい事言うなよ!一緒に学校行こうって!」
「いいから保っちゃんたちと学校行けって!」
ぎゃあわあ叫びながら走る二人を見て保はヒューヒュー口笛を吹いて冷やかし、一人でゲラゲラ笑い転げているだけで、傍観者の立場を徹底している。独りぽつねんと置いていかれた正雄は、数秒の後漸く事態を理解したようで、顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。
「なんだよ!徹ちゃん、アイツの事ばっか構って、おれの話も聞かないで!!」
「うーん、兄貴のアレは、まじで恋そのものだからな。放っとこうぜ、最高に面白いし」
「面白いわけないだろ!お前それでも徹ちゃんの弟なのかああ?」
「弟だからこそこんな面白がってんだよ、兄貴のここ最近の変遷ぶりをさ」
丁度やって来たバスに乗り込みながら、保は舌を出し徒な笑みを浮かべそう言い放った。正雄は言うべき言葉を見失い、喉元まで出掛かっていた更なる愚痴の数々を胸中に引っ込めるより他なかった。…畢竟、呆れていた。
2010/11/22
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