蛍光灯が白く眩しい。葵が眼を瞑っても、その残影が瞼の裏に静かに映る。

 部屋で宿題をやっていると、ノックもせず保がニヤニヤしながら部屋に入ってきた。同い年だが末っ子の彼は、要領がいい。
「葵、入るぞー」
「もう入ってんでしょー」
 ドスドスやってきて、葵を見て保はニヤリと笑った。葵は嫌な予感がしたので、保に向けていた顔をテキストの紙上に戻して、シャーペンの芯をノックする。カチカチ、時計の秒針の音に混じって硬質な音がした。
「最近の兄貴、面白いと思わねー?」
 …ホラね、やっぱりそう来た。葵が顔を顰めた。最近の保は、とにかく野次馬根性全開なのである。それも主に、一番上の兄に対しての。
「何がよ」
「ちょっと前までさ、すげぇ元気なかったじゃん、兄貴。アレさ、リアルに夏野が風邪ひいて寝込んでたからなんだぜ」
「まさかぁ」
「ホントだって。今見てみ、あの元気は夏野が回復してから以来だって」
「まぁ…時期的に考えればそうね」
 確かに、徹の変調は葵の眼からしても明らかだった。とにかく虚ろなのだ。反応が鈍いというか、上の空というか、徹の様子はあの頃確かにおかしかった。
「絶対さ、兄貴、夏野のこと好きなんだよ。もうアイツら何処でもイチャついてるみたいだし、付き合っちゃえば、と思うけどね、おれは」
「イヤよ、ホモのお兄ちゃんなんか御免だわ」
「でも夏野なら安泰ってもんだろ。おれ、つくづく思ってたんだよね。兄貴には、ああいう、グイグイ引っ張ってってくれるカンジの頼りになる姐さん女房がお似合いだって」
「ナツは男でしょ」
 シャーペンの芯がボキリと折れたので、諦めて葵は机に向かっていた体を、保に向ける。保はカーペットの上に胡坐を掻き、椅子に座る葵を見上げて相変わらずニヤニヤしていた。
「夏野、眼ェでかいし睫長いし色白いし、綺麗な顔してるもんな。兄貴が道を違えちゃうのもちょっとは分かる気がするぜ」
「冗談やめてってば」
「それが冗談じゃないだな、コレが」

 居間に兄貴居るからさ、話しかけてみなよ、面白ェから。

 葵はやっぱり嫌な予感がしたが、結局好奇心に負けて、保の後に続いて居間に下りたのだった。

 

 

 

 

 

 母親は風呂場で、風呂を沸かすために浴槽を掃除している。父親は未だ帰ってきていない、居間には保の言うとおり徹が一人で居た。
 何故か、食卓にだらしなく顔を突っ伏している。身体がデカイだけあって、何だか異様な光景だ。

 保は座布団の上に座って、テレビに真向かいながら、葵に顎で徹に話しかけてやれ、と指図した。葵は溜息を吐きつつ、徹の肩をツンツン、と突付く。

「お兄ちゃん…?」
「…」返事が無い。
「どうしたのよ、こんな所でぐったりしちゃって」
「…」返事が無い。
「聞いてる?」
 漸く、そこで徹が頭を少し傾かせ、覗いた瞳が葵を捉えたが、その眼もどんより曇っていた。葵がぎょっとする。
「…葵か」と当たり前の事を言うので、葵は顔を少し引き攣らせながら「葵ですけど」と律儀に答えた。すると、徹がまた顔を机に突っ伏させる。これで振り出しに戻った。葵が更に徹の背中をツンツンする。
「ちょっと、どうしたのよ。元気ないじゃない」
「…最近…」
「何かあったの?最近?」
「最近、夏野が冷たい…」

 …はいいいいい?

 葵が眼を剥き、脱力した。実の兄が、というか高校二年生ともあろう男子が、二つ下の中学三年生の他人に、しかも男に冷たくされているとメソメソしている。これは、正直キツイ。色んな意味でキツイ。
 それまで傍観を決め込んでいた保が、割り込む。
「兄貴、マジで夏野の事好きなんだろ?」
「うん、好きだぞう」
 葵は、そういう意味で聞いてるんじゃなくて、と思わずツッコミそうになり、慌てて口を噤む。何だか余りこれ以上追及したくないと思ってしまう葵である。友情じゃなく最早恋愛にも似たそれなんじゃないか、とヘタに聞いて肯定されようものなら、葵の頭は即座にその場でボカーンと爆発するに違いない。憤死である。
 そして葵にここまで考えさせてしまう兄は矢張りとんでもないというか、…この兄の、彼への熱愛っぷりは相当なものだろう。
「け、喧嘩でもしたの?」
「してない…」
 はぁ、と戸惑う葵に、コッソリヒッソリ保が耳打ちした。
「多分、今朝、ちょっと色々あって夏野にツレなくされたんだよ。それで、兄貴は拗ねてんの」
「何があったの?」と葵。
「んー…まぁ、一言で言えば、夏野が照れた。ラブラブだね〜お前ら、っておれが冷やかしたら、夏野のヤツおもしれーくらい動揺しちゃって。んで兄貴から夏野が逃げようとするもんだから、兄貴もムキになって追っかけてさぁ、そんで益々夏野が逃げて、負のループだよねコレ。あーあ、今思い出しても傑作だわ」
「あ、あ、あんたが結局元凶なんだろーがっ!!!」
 ヘラヘラ笑って舌を出す保に葵が掴みかかったところで、徹がまたメソメソしだす。
「なつの…おれ何かしたっけ…」
 うっうっうっ。響く嗚咽。それがウソ泣きなのか本気なのかは知りたくない。
「というワケで、姉弟喧嘩はまた今度な。とりあえず、兄想いの姉弟として、ここは一計を案ずる必要があるとみた。喧嘩なんかしてる場合じゃないと思うぞ」つくづく調子の好い弟を、今度こそボカっと葵が殴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 確かに驚いた事は驚いたのだ。兄は、徹は、長子らしくおっとりしていて、のんびりしていて、人当たりがよく、それ故に人望がある。今まで大勢のグループとワイワイやる事はあっても、こうも一人の人間に親密になった事がない。
 つまりは固執しない。執着がない。正雄が徹を兄のように慕い好いているように、徹は特定の誰かを好く事がなかった。

 こんなに大騒ぎした事も今まで一度たりともないのである。

(何がお兄ちゃんの琴線に触れたのかしらね…)
 思い返せば、夏野と彼が知り合ってからまだたったの二、三ヶ月しか経っていないではないか。夏野がここに越してきたのが初夏、今は初秋の頃ではないか。葵が首を傾げるのも無理はないだろう。そして正雄がそれを面白く思わないのも当然だと思える。彼は、あっという間に徹を奪っていってしまったからだ。

 確かに、夏野は人を惹きつける才があると思う。容貌は否が応でも眼を惹く。性格も人当たりは破滅的だが、悪くはない。だが、それだけでは説明には不十分だ。

(…正反対だからかしら?)
 徹と夏野の性格は対極にあるといっても過言ではない。もし、もしそれが徹の心をここまで惹きつけている原因ならば───
「よし、デートに漕ぎ付けよう」
 傍らの保の声で、葵は我に返った。また保が矢鱈滅鱈とワクワクしている。
「…あんたねぇ、好い加減にしなさいよ」
「何でだよ。このままじゃ、兄貴、本当に生ける屍っつかゾンビみたいになっちまうぜ。兄貴ったら、こういう事になるとオクテなんだよなぁ。だからおれ達が仲人してやらないと」
「ほっときゃいいのよ、面倒臭い」
「冷てーの。兄貴が心配じゃないのか、それでも妹なのか!」
「あんたこそ面白がってるだけでしょおが、保」
「おれだってなぁ、四六時中あのバカップル具合見せ付けられて、それに嫉妬する正雄の相手して、何つーの?『正雄→徹→夏野』という俗に言う三角関係(?)の泥沼に毎回巻き込まれてんの。分かる?ストレス溜まんだよ、こういうので発散していかないとさ、やっぱ」
「やっぱり面白がってるだけなんでしょおが、保」
 半眼になった葵が睨みつけるも、保はヘラヘラしている。末弟はタフ過ぎる。
「よし、そうと決まれば、明日、秋の夜空鑑賞会しようぜ。おれと葵と兄貴と夏野で」
「ちょっと、勝手に決めるのは流石にナシでしょ」
「デートと言えば夜空!ロマンチックと言えば夜空!もうコレで兄貴と夏野はヨリを戻す事間違いナシ!フゥ〜〜〜っ」
「…」
 いつから、武藤家にはバカしか居なくなったのかしら。
 バカ兄貴とバカ弟に挟まれる武藤家長女・葵、そりゃ溜息もつきたくなる。合掌。

 

 

 

 

 

 

 

 


 よし、今日は晴れのはずだ。だから星空もバッチリ、というワケで今夜決行な、と保は部屋でゲームのコントローラーを一心不乱に連打していた実の兄をズルズル引っ張り出し、無理矢理連行している。『兄貴ーっ!今夜は星が綺麗だぜ!というワケで外行こう!』『いいよ、おれ今ゲームしてるから…ほぇ?ちょ、ちょっと…何でひきずるな保!ゲームしてるって言ってんじゃん!話を聞いてくれ保ぅぅぅ!!』まぁ詰まる所、徹が動くべくもないので強制連行しただけの話なのだが。

 案の定、セーブする事も出来ずにゲーム放置された徹は頻りに家に戻りたがったが、保がそれを許さない。
「いいからキリキリ歩けよ〜ゲームの事なんて忘れろよ〜」
「うっうっう…保が苛める…助けて葵」
「…」
 下らない。下らなすぎる。葵は自分の事を切に可哀想だと思い始めている。

 と、そこで漸く徹は我に返ったらしい。
「…保ぅ、これって、何処に向かって歩いてんだ?」
「どこって、まずは夏野の家だけど。アイツも誘わないと」
 徹が面白いくらいその名に反応した。途端にそわそわし始める兄を見て、保が思わず苦笑い。葵は溜息。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏野は「星なんか見てどうするんだ、」とぶつくさ文句を言いながら(全く失礼な奴だ)、一応出てきたものの、仏頂面の侭だ。徹はその後ろをとぼとぼ歩く。気まずい。
 ───見晴らしのいい所に出よう。そう言って、村外れに出る。樅の木が立ち並んでいる。鬱蒼と茂る樹木の間から、微かにしか星空は見えない。
 「星、全然見えないけど」と夏野に冷静かつ辛辣に突っ込まれたので、更に歩いて、結局尾見川まで行く事になった。
 昼間暑い日でも、夜ともなれば流石に冷える。尾見川の清澄な流れが、視覚的にその寒さを助長した。

 

 

 

「どうだ、ここなら眺めいいだろ!」
「まぁな」と夏野。
「…」と徹。
「はいはい」と葵。全員、保には冷たいというか、そもそもこの計画に乗り気なものは保以外には居ない。
「何だよ、ノリ悪いなぁお前ら。もっと陽気に行こうぜ!」
「無理矢理引っ張ってきてその台詞はねぇだろ」と夏野。
「…同じく」と徹。
「ほんとよ」と葵。
 業を煮やした保が、じゃあこれならどうだっ!!とコッソリ後ろ手に隠し持っていたバケツを、ジャーンと掲げた。
 夏野が怪訝な顔をする。
「なにそれ」
「花火。夏に買い溜めしてて残ってたやつ全部持ってきた。湿気てるかもしんないけど。ホレ、ライター。葵はバケツに水汲んで。尾見川なら火遊びも安全だろ」
「秋に花火はオツかもな」と徹が少し元気を取り戻したように言うので、保も笑う。
 花火の量は結構なものだった。それを一人一つずつ摘んで、ライターで火を点ける。

 

 


「わっ点いた!きれー」
 葵の持っていた手持ち花火が、光を噴き上げた。葵が早く早く、と急かすので、保も両手に手持ち花火を何本も纏めて持って火を貰おうと躍起になる。
「ちょっと保!そんなに一度にやったら勿体無いし危ないでしょー」
「大丈夫だって、こんなに量あるから。ここは豪快に行こうぜ」
「怖い怖い!こっち来ないで!」
「なんだよ葵〜酷いじゃないか〜」
 と、そうこうしている内に、強い風が吹いて葵の花火がふっと消えた。
「ほらーあんたが変な事してるから消えちゃったじゃない!」
「おれのせいじゃないだろー今のは」
「あんたのせいよ!も〜、またライターで火ぃ点けんの面倒クサイのに…」

 保が、ふと振り向いた。

 二メートルほど離れた距離に、夏野が花火を持って立っていた。チャッカマンの火が点かないと徹が四苦八苦している。
 その距離は、近い。言葉もかけず、その徹の様子をじっと見ていた夏野が、貸して、とそこで一言言って徹の手からそれをそっと抜き取る。
 カチ、カチ、カチ、何度か乾いた音がしてから、静かに小さな灯火が点る。徹が持っている花火に、それを近づけた。夕暮れ色の光が保の瞳には眩しい。
 徹は夏野を見ている。夏野はそれを知ってか知らずか、「気が漫ろなんだけど、」と眼を伏せて微笑んだ。仄かに二人の顔を照らす光輝、…儚い線香花火が、風に揺れている。瞬時、見詰め合う二人。

 

 

 

「───…」

 黙り込む保に、葵が不思議がって声をかけた。
「どうしたの、保」
 と、途端に保が突然、「あああああ!!」と叫んだ。

 

 至近距離にいた葵がたじろぐのは当然として、少し遠くに居る夏野と徹までもが振り向く。
「どうした、保よ」と徹が聞き、保はがくりと膝を大仰に地につけ、天を仰ぎながら「宿題やるの忘れてたぁぁぁぁ!!やっべ、おれ今から帰ってやらないと終わらねぇこれぇぇぇっ!!!」と叫んだ。
「宿題?」
「そう、宿題。やっべ、これまじやべぇわ。やっぱおれ帰るわ、ごめんな兄貴。言いだしっぺおれなのに。…葵はどうすんの?」と葵に向ける保の瞳が訴えかけるので、葵も仕方なくその茶番劇に付き合う事にする。
「きゃあっ私もお母さんのお手伝いするの忘れてたわ!」
「じゃあおれと一緒に帰るよな?」
「うん、帰るわ。…夏っちゃん、お兄ちゃん、ホントごめんね〜!!」
「や、おれたちは…別に…」
 な?夏野、と傍らの夏野を徹が見るが、少し惚けたところのある徹と違って、鋭い夏野はじと〜〜〜っと保と葵を見ている。
「…なんか、怪しいんだけど」
 ぎくうっとした保が慌てて取り繕った。
「いやいやいや、何言ってんだよ。ほんと、何言ってんだよ」
 動揺したせいで同じことを二回繰り返している。
「…別にいいけど、じゃあおれも帰るよ」と夏野。しかしここで彼に帰られては困るのである。
「夏野は残ってくんなきゃ!だって兄貴、一人そこに置いて行く気かよ!」
「ほぇ?」と徹が惚けた声を出した。
「兄貴今線香花火やり始めたばっかだろ!こんな兄貴を一人で置いて行く気なのかけしからん!」
「…おれ、関係無いし」と呟く夏野に対し、「そうだそうだ、けしからん!」を葵まで連呼。当の徹は何が何だかよく分からない様子でボケっとしているし、夏野はがしがしと髪の毛を掻いた。
「あ〜〜〜…解ったよ。おれと徹ちゃんでここに残ればいいんだろ。解ったから…さっさと帰れよ。あーだのこーだのうるさいから」
 保と葵がにやっと笑って、じゃあな、と二人に手を振った。空は星が煌いていた。帰り道には冷たい風が吹き荒ぶ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…何だかなぁ」
「言いたい事、解るよ。だから言わないで」
「そうだな」
 一つ違いの兄貴。手間のかかる兄貴。頼りになるんだかならないんだかよく分からない兄貴。その癖人気者の兄貴。図体はでかい癖に、妙なところで気弱だったり、その癖怒ると怖〜い兄貴。
 葵と保は、その兄貴が、小さい頃から大好きだったのだ。
「娘を嫁に出す父親の気分って、こんなカンジかな」
「やめてよ」
 葵が笑う。
 不思議と、胸の中にはぽっかりと空洞が空いたようだが、それが心地良くもある。悪くは無い。

 それに、今頃その兄が二人っきりにされてオロオロまごついているのだろうか、とも考えると愉快でもある。

「あーあ、何だか寂しいな」
「じゃあ、お前一生独身でいろよ、葵」
「いやですぅ〜イケメンと結婚しますぅ〜」
 笑って、家のドアを潜った。お帰り、随分早かったわね、と母親のあたたかい笑顔が待っている。保と葵は顔をもう一度見合わせ、そして微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな音が虚空に響く。線香花火が弾ける音だ。

 街灯も少ない外場の夜は暗闇に包まれる。街路に出ているとなればまだしも、尾見川に佇んでいれば灯りは無く、小さく燃盛る其れだけが二人の顔をぼんやりと照らしていた。

 もう保と葵の姿は見えない。傍らには尾見川が緩やかにうねってチョロチョロと水音を立てている。
 徹が身動ぎをした途端、夏野が咎める。
「動くなって。花火が消える」
「元はと言えば、これ、お前が持ってた花火だろ」
 徹が言っても、夏野がそれを受け取る気配はない。持て、と言う事らしい。
「なら、夏野も火種ある内に花火やれよ。あいつら、バケツも花火も全部置いてったから、幾らでも遊べるぞ」
「その花火が消えたら、おれ帰るよ。夕飯も食ってないし」
「…そうか」
 徹が微笑むが、それは随分と寂しげに夏野の瞳には映る。しゃがみこんでいる格好の徹が夏野を見上げた。一瞬瞳が合い、夏野がふい、と顔を逸らす。
「───なんで、顔、逸らすんだよ」
 徹の声は思いの外大きかった。夏野が振り向く。
「逸らしてない」
「逸らしてる。最近、冷たい」
「徹ちゃん」
「お前に嫌がられると、真面目に傷つく、って言ったろ」
 徹の目線は、線香花火を追っている。弾けては儚く消えてゆく火花を見ている。
「…嫌がってない。嫌がってないけど」
「『けど』?」
「どうしたらいいのか解らない時がある。どうしようもなく途方に暮れたり、戸惑う時がある…」
「どういう時」
 夏野が、徹を見据えた。
「徹ちゃんがおれをじっと見ている時。徹ちゃんがおれを無理矢理抱き締める時」
「…」
「おれはどうしたらいいのか解らなくなる。あんたが解らなくなる」
「おれが解らない?」
「何を考えているか、が」
 線香花火を持っていない方の手が、夏野の手首を強く掴んだ。
「おれの考えている事が知りたい?」
「…離せって」
「お前を捕まえようとするとこうやって嫌がられる。お前はいつもおれから逃げようとする。おれは酷く傷つく。益々追いかけようとしても、お前は更におれから離れてゆく」
「徹ちゃん」
「おれが嫌いか?夏野」
 徹の声は何時に無く低く囁く。

 …おれは、お前のこと、好きなのに。

 

 

 

 

 

 


 夏野がさも苦しげに眉を顰め、胸を押さえた。
「…あんたには、解らないよ。徹ちゃん」それ以上、夏野の唇は言葉を紡がない。言葉になりえない想いが夏野の中を駆け巡る。
 ───仲良くする気なんてなかったんだ。こんなに、誰かと一緒に居た事なんて今までなかったんだ。おれはとてもじゃないが人に好かれるような性格をしていない、だから疎まれる事はあっても、こうも誰かの傍に居た事はなかったんだ。…自分から、誰かの傍に居たいと思う事すら。自由でありたい、何ものに対しても自由でありたい。なのに、あんたはどんどんおれの中に入ってきて、おれの心をどうしようもなく縛り付ける、この村であんたと過ごす日々も悪くない、とおれの目標までをも侵食する、おれの中の何かが確実に変容してゆく、この苦しみも痛みもあんたには解らない

「ああ、そうだ。夏野の事なんておれには何一つ解らない。他人だからな。だから、教えろっつったろ。お前の事、おれは何も知らないから、教えろって。夏野は何も言わない。いつだって、おれに自分の気持ちを伝えようとしない。じゃあおれはお前の何を信じればいい?」

 

 線香花火が消えた。と同時に、徹が夏野を引き寄せ、抱き締める。夏野はもう抵抗しなかった。抗わず、ただひっそりとその腕の中に身を任せた。
 あたたかい鼓動が伝わってくる。
「おれから逃げるな、夏野…」と囁き震える声に、夏野は返事をしない。
 人肌の心地よさなんか知りたくなかった、と夏野は思うと同時に、もしかしたらおれはこの村から、───否、この腕の中から、永遠に逃れられないのかもしれない、と漠然と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家の前まで送ってくれた徹は、「また明日な」と言い、そして名残惜しげに夏野の手を放す。瞳が合った。す、と徹は身体を屈め、コツ、額を合わせて髪を撫でてゆく。そして離れ、背を向けて自分の家へと彼は歩いた。夏野は、温もりが残る己の手を少し掲げ、それを見詰めた。徹の顔が泡沫の如く浮かんでは消え、それは瞼を閉じても余りに鮮烈に思い返される。
 咄嗟に開いた唇が何を言おうとしたのかは解らない。ただ、夏野は掠れた声で彼の名前を呼ぶ。だがそれもすぐに冷たい風に掻き消された。夏野の影だけが昏く、どこまでも昏く、夜の底に沈んでいった。
 

 

 

 

 2010/11/24