夕方になってから、夏野が家にやってきた。チャイムの音にドアを開けた徹は笑顔になる。
タッパーに入った肉じゃがを持っていた。作りすぎたので持っていけと母親が、と夏野はそれだけ言って足早に去ろうとしたが、折角なんだからあがっていけよと徹が引きとめた。夏野は徹の熱意に負け、渋々、といった感じでまた武藤家にお邪魔する事になった。
「おれ、夕飯までには帰るからな」
「夕飯ウチで食ってけば?」
「何でだよ、お裾分け持ってって夕飯ご馳走になる、ってどう考えてもおかしいだろ。帰るったら帰る」
「も〜頑固だなぁ夏野は」
「名前で呼ぶなって。…ウチで食べないと煩いんだよ、親が」
「ふぅん。お前んトコ、一人っ子だもんな。愛されてんだよ」
夏野がそこで口元を歪めた。笑んでいるのかと徹が理解したのは数秒遅れてからだった。ただし、それは嘲笑か皮肉を込めた笑みとでも呼べるものを含蓄した類だった事に間違いはなかった。
夏野は横になる事が好きだというのは、彼が家に遊びにくるようになってから徹が知った事だった。徹の部屋に来ると、必ずと言って良い程の頻度で徹のベッドにゴロリと横になって雑誌や漫画を勝手に本棚から出して読み始める。
「あれ、また来てんの、夏野。お前らホントラブラブだな〜お部屋デートかよ」
ドアを少し開けその隙間から顔だけひょいっと覗かせた保が、ニヤニヤと笑った。
「アホか」と眉を顰めての夏野の冷徹な突っ込みにも表情を崩さず、保は相変わらずの笑みで「仕方ねーから、兄貴の恋愛成就のためにジュースと御菓子持ってきてやるよ」と言う。「お、あんがとな〜保。おれも手伝うよ」「いやいや、兄貴はそこに居てくれよ」と言ってさっさと保は階下に戻っていってしまった。
手元の雑誌から眼を離さずに、夏野が徹をちらりと見た。徹もその視線に気付いて、夏野を見る。夏野はベッドに転がった格好の侭で、その長く癖のある豊かな髪が艶やかにシーツの上に散っていた。長い睫で縁取られた瞳が、徹だけをじっと見ている。このような何でもない情景に、徹は最近激しく動揺するが、気取られぬように自然な動作でゲーム機のスイッチを入れた。
「徹ちゃん」
「ん」
「何アレ」
「何アレって…おれの弟だけど」
「そうじゃなくて。『兄貴の恋愛成就』だか何とかうんたらかんたら言ってたけど」
「言ってたなぁ」
「何とかしろよ。この間から、矢鱈とおれ達にコソコソしてんじゃん、アイツ。気色悪い詮索して」
「…してたっけ?」徹が首を傾げたのを見て、夏野が溜息をついた。「…もういいわ」
今度は徹が訊ねる番だ。
「そもそも、『おれの恋愛成就』ってどういう事だ?おれ、恋愛してたのか」
夏野がジト目になる。
「…」
「何だよぉ夏野。知ってるなら教えろよ」
「…だからさ、おれと徹ちゃんの仲がアヤシイって下らない詮索してんだよ、アイツ」
「おれと夏野の仲が?」
「本当、下らないよな。そもそも男同士だっつの」
「ふぅん」
ベッドが軋む音で、嫌な予感を感じ夏野は顔をあげた。ニヤニヤした徹が、いつの間にかベッドの上に乗り上げて夏野を見下ろしていた。
「そうか〜夏野とおれがラブラブか〜」
「何だよ…向こう行けって。ゲームやってろ」
「おれ達お似合いのカップルってコト?にゃはははそーかそーか」
「気色悪い。いいからソッチ行け」
寝転がった侭の夏野の足が、ぐいぐいと徹の背中を押しやる。徹が「いだだだ痛い痛い止めろ夏野ぉおれ落ちる」と言いながらその足を掴んだ。徹の思わぬ反撃に、夏野は掴まれていない方の足で更に強く徹を蹴ろうとしたが、その足も難無くひょいっと捉えられた。両足を押さえられ、かつベッドに寝っ転がったままの夏野。徹は何故だかニヤニヤした侭だ。
「つっかまーえた。お前、足も細いな。どこもかしこも細いけど」
どこぞのセクハラオヤジ宜しく足を揉み始めた徹に、夏野がぞわぞわと鳥肌を立て、暴れる。
「気持ち悪ィーんだよ!離れろって!!」
「よいではないかよいではないか。嫌よ嫌よも好きのウチ、ってな」
「っざけんなぁ!」
徹の手を離れた夏野の足が、渾身の力で、がこっと徹の顎を蹴り上げた。ぐはあっと徹はダメージを受け、ふら〜と前のめりに倒れる。つまり、夏野の上に覆いかぶさるように。
「っつ〜…顎はダメだろ顎は…」
「自業自得だ。いっつもいっつも嫌だ嫌だっつってんのに名前は呼ぶわ、ベタベタするわ…」
「じゃあ『結城く〜ん』とでも呼んであげますよ、も〜乱暴だなぁ」
夏野が顔を顰める。
「…いや、その呼び方は勘弁して欲しい」
「何で」
「嫌いな奴思い出すから」
夏野が思い浮かべた人物と同一人物かは解らないが、その時丁度徹の脳裏にも浮かぶ人影があった。───清水恵。
『結城くんはどこ』
不安になる。
『調子に乗って結城くんにも随分と馴れなれしいし、弁えなさいよ』
不安に。
「なぁ、夏野」
「なんだよ」
「お前、好きな子とか居んの」
「何だ、藪から棒に」
徹の身体の下から、夏野がじっと徹を見上げた。
「夏野、モテるからさ。心配になる」
「どういう意味だよ」夏野が少し笑う。
「おれだって、長らく彼女居ないんだぜ。二つも年下のお前に先越されたら年長者としてのプライドが」言いながら、徹はこれは詭弁だと解っていた。だが回答は無理矢理心の奥底に沈めて閉じ込める。閉じ込める。知らない振り「バッカじゃないの」夏野は少し微笑む。だが徹の心中は安穏とは程遠かった。 …不安に。 「つか、いつまでこうしてるつもりだよ。ゲームやれ、さっさと退け」
「なにおう!そういう悪い夏野くんにはお仕置きするぞぉ〜」
そう言って、徹はコチョコチョコチョ、と両手の指をワキワキさせる。夏野はびくっと後ずさりしようとしたが時既に遅し。「な…やめ、…」と拒否してもそれはすぐにげらげらと笑声に変わる。徹が脇腹を擽っている。
「そーれそれ〜笑え〜苦しめ〜」夏野は笑い転げているものの、苦しそうだ。徹は更に擽ってやろうと、指を脇腹から脇の下に移動させようと身を屈め更に夏野ににじり寄る、と同時に、その僅かな隙を狙って夏野が勢いよく上半身を起こした「い、いい加減に…!」その後の夏野の言葉は続かなかった。 タイミング悪く、唇の端が、徹の唇とぶつかったのである。双方の柔らかい唇がほんの僅かな瞬間、触れ合う。 「…」
「お」無言の夏野に対して、声をあげたのは徹だったが、数拍遅れてから、夏野が顔を真っ赤にして飛び退さった。徹が始めて目にする表情だ。いつもクールな彼には珍しく、激しく動揺している様子。 「何だよ。顔真っ赤にしちゃって、カワイー夏野」揶揄しても拳や冷たい反撃の言葉が返ってくる事は無い。口元を押さえて、夏野は徹を睨めつけている。徹は拍子抜けした。
「…だから、どうしたよ。事故だろ?事故。おれはお前にもっと近寄ろうとして、そん時お前はタイミング悪く起き上がろうとした。そんでちょっとぶつかっちゃっただけじゃん。だってまさかファーストキスじゃ…」
と言ってから、徹は、改めて目の前の少年がまだ中学三年生である事を思い出した。自分よりも二つ下、年若い、そしてこの彼らしからぬ赤面具合、動揺具合…もしや…
そして徹はあっさりとその疑惑を口にする。
「…もしかして、お前、キスした事無いの?」
「…」眼を逸らして目元を紅潮させての沈黙が全てを物語っていた。徹は、けらけらと笑う。
「ははは、そうかー!キス初めてかぁ。そりゃ、悪い事したなぁ」
死ね、と夏野が徹を思い切り蹴飛ばした。徹が無様にベッドから落ちて、物凄い音がする。その時丁度、保が、ジュースを入れたコップとお菓子を載せたお盆を持って部屋に入ってくる。ベッドの上の夏野と、いだだだだ、と蹲る徹を交互に見て、訝しげに聞いた。
「兄貴、何騒いでんの?」
尻餅をついて痛む尻を摩りながら、徹が答える。
「おおう、いい所に来た、保。実はな、今おれ夏野の初めてを…ふが」
夏野が黙って手元の雑誌を徹の頭に投げつけた。その切れ長の目尻は保には気付かれない程度に未だ微かに赤く染まっている。
「なにおする夏野!」
「保っちゃん、何でもないから。あんたのバカ兄貴が一人で騒いでただけだから」
「アヤシー。どうせまたイチャついてたんだろ」という保の言に、「気色悪い事を言うな」と夏野が顔を顰め、睨まれた保は特に気にした様子もなく「じゃあこれ以上お部屋デート邪魔するのもアレなんで退散しまぁす」などと調子の良い事を言いながらニヤニヤ部屋を出て行く。後には保の持ってきた御菓子とジュースが残った。 夏野は相変わらず仏頂面の侭だ。険悪な空気の中で、へらりと徹が笑顔を作った。
「やー悪い悪い。悪かったって。でもアレだから、本当に自分が好きな人相手じゃないと基本キスってノーカン(※ノーカウント)だからさ、大丈夫だって」
それにしても、夏野、すげーモテんのにキスした事ないんだ。前にウチの学校に迎えに来てくれた時もさ、ウチのクラスの女子、お前の事カッコイーってヒソヒソ話してたんだぜ。やっぱ、綺麗な顔してるもんな、お前。
「…徹ちゃんは、した事あるんだ」
夏野の呟きに、徹は少し眼を見開く。
「おれ?おれは…そうさなあ、あるっつったらある」
「彼女?」
「うん。元カノかな」
いつ、と夏野は聞いた。
「高一の時。向こうから告白してきて、…半年くらい付き合ったのかなぁ」
「何で別れたんだ?」
「んー…何でだろう。別れ話を切り出してきたのは向こうからだったんだけど、…女心は解らんからなぁ。そもそも、おれ、あんまり相手の事好きでもなかった気がする。大切にはしてたつもりだけど」
夏野がさも意外だと言わんばかりの表情をとった。
「…何だよその顔はぁ〜。おれだって好き嫌いくらいはあるって。寧ろおれの好き嫌いはかなり激しいぞう」
夏野が眼を伏せ、「誰にでも優しい癖に?」
───そう見えるんだ。
思いつつも徹は笑顔でベッドの上に顔だけを乗り上げる。
「なんだぁ夏野、ヤキモチか〜?もしかしてもしかして、おれ以外のヤツに優しくしないで〜っ!!ていうアレか?愛いヤツよのう」
「誰もんな事言ってねーだろ!」
「ふっふっふ、ムキになるのがアヤシイ。お前、ホントおれの事好きなのな」
「好きじゃねーよ!殺すぞ!」
いつもの冗談。軽口の応酬。彼は律儀に悪態で応対する。 夏野が帰ってから、徹は部屋を見渡した。ベッドにごろりと横になると、彼の温もりが残っている事に気付いた。 ───唇の感触は、柔らかかった。 『誰にでも優しい癖に?』
優しくはない。これは優しさではない。ただの惰性。
『結城くんはどこ』
不安になる。
『調子に乗って結城くんにも随分と馴れなれしいし、弁えなさいよ』
…誰にも、渡したくない。
ただ、唇の感触が。あの感触が。「熱い」眼を閉じた先には炎が小さく燻っている。もう気付いてしまえば後はその炎に身を焦がれながら落ちるしかないという事を徹は知っている。 |