酩酊が未だ身体の内を廻っていた。だが気分は悪くない。悪酔いした感じも無い。
「眼が覚めた?」
「…ああ」
「辰巳に頼んで紅茶を淹れて貰ったの。飲んで」
紅茶は好き?と訊ねる沙子に静信は黙って頷いた。頭がまだぐらぐらとしている。マグカップを受け取りながら、頭を抑えた。意識の焦点がいまいち合っていなかった。
「顔色が悪いわね。私の所為だけど」
「…仕方ないだろう」
「私を責めないの?」
「仕方が無い事だ。君を責める資格は僕には無い」
沙子はくすりと笑った。
「やっぱり室井さんの事が好きだわ、私」
「…」
黙って紅茶を飲む静信の膝に、そろりと沙子の細く可憐な指がかかる。
「貴方は私の事が好き?」
「…僕には、好きとか嫌いとか、そういうものが良く分からないんだ…」
「私もそうよ。でも貴方や私だけじゃなくてきっと皆そう。よく分かっていない癖に皆使いたがる言葉だわ」
「じゃあ、たった今僕に言ったその『好き』も」「そうね。よく分からないで使ったわ。傷ついた?」「いいや」
沙子は外見年齢とは裏腹に静信の何倍もの歳月を生きている。その分、時たまに静信が全く太刀打ち出来ないと感じる程の老獪さが垣間見えた。
今は何時だろうか。完全に遮光されたこの部屋では時間感覚は完全に麻痺する。ただ薄暗い部屋に少女の白貌が薄く浮かび上がるだけだ。───微笑んでいる。
「好きって何なのかしら。自分の傍に居てくれる人の事を『好き』というのかしら。でもそれは結局の所自分が可愛いだけよね。だってそれは裏返せば傍に居てくれなければ『好き』ではないって事なんだから」
「そうだね」
「それとも自分の事を理解してくれる人の事を『好き』というのかしら。でもそれだって裏を返せば、自分の事を許容してくれない、理解してくれない人なんて『好き』ではないって事でしょう」
「…うん」
「条件無しの『好き』なんて有り得ると思う?人は誰でも自分が一番可愛いに決まってるのに」
「…それは…どうだろう。じゃあ己の命を投げ出してまで他人を救おうとする人間の行動は説明がつかないんじゃないか」
「そうね。でも自己満足が少しでもその行為の中に入っていないと言い切れる?」
「…」
「結局の所この世は不確かなものだらけで何も分からない。他人と自己という二者関係の間には如何する事も出来ない大きな壁がある。それを超える事は不可能よ、自分が自分である限りね。だから私がこうして今話していることと、あなたが今こうして聞いていることの間にはどうしても齟齬が生じる。私が思う私とあなたが思う私は違う。ならば『私』という軸を起点にした『好き』なんていう他者への感情なんて虚構でしかない。まやかしよ、条件無しの『好き』なんて」
「…どうしても理由が必要なのか?」
「理由のないものなんてこの世にある?」
「僕は、本当の意味での『好き』っていうのは、理由が介在しない類のものだと思うよ」
「あなたが手首を切ったように?」
ぽつりと漏らした言葉が宙に舞う。静信の白い面が紅茶の紅の水面に揺れている。
「理由が見つからない、というのと、理由が存在しない、というのは同義ではないでしょう?」
「…僕には、分からない」
「理解しようとしても理解出来ないのと、理解したくなくて目を背けるのもまた異義だわ。…そうね、理解への試みというものが、外界と自分とを繋ぐ唯一の架け橋である筈なのに」
どうして理解し合えないのかしらね、人は。人と屍鬼は。狩る者─狩られる者という二項対立の図式以前に、屍鬼は人の理解の、『常識』という共通理解の範疇から外れた存在だから人も屍鬼も分かり合う事が出来ない。
「貴方はお父様を理解する事が出来た?」
「…理解しようとはしているよ」
「それだって、貴方のお父様と少しでも貴方が同じ経験を体験を感情を共有していたからだわ。───きっと、憎悪をね」
「沙子」
思ったよりも低い声が口から出た事に静信は自分で驚く。目の前で沙子が静かに微笑む。
「…そうそう、私、ずっと気になっていたの。室井さんが書いていたあの小説、アベルがお父様や貴方だとすればカインは───?」
アベルが私達だとすれば、カインは一体誰なのかしら?
尾崎さん?
「違うよ」
「だってあれは貴方の心象風景でしょう?」
眼を伏せ静信は彼の姿を瞼の裏に描き出す。もうじき彼はきっと此処にやってくる。その時自分はどうなるのだろうと考えた。殺されるのだろうか。だがどっちにしろ自分に余り時間は残されていない事だけは明白だった。
「私の『好き』はおかしいのかもしれない。貴方の血を吸うのにも何の罪悪感も沸かない。…少し前にね、親友の子を殺しちゃったって元気の無い子に昔話を聞かせたのよ。凄く落ち込んで苦しんでいた。私も、そんな風に人を殺して苦痛を感じた事があったのかしら。記憶だけが磨耗していく。分からないわ」
沙子が静信の首筋をそろりと撫でる。そろそろお腹が空いてきたのだろう。直にまた意識の帳が落ちる。だから静信は最後に聞く。
「理由が必要なのだとしたら、君が生きる理由は何なんだい?聞かせてくれないか」
「…逆に聞くわ。貴方の生の理由は?目的は?貴方のアベルなら何て答えるの?」
アベルは秩序から脱却する為に兄に殺される事こそがその目的でありその為に死を選んだ
「ならカインは誰?貴方のカインは」
「僕は…」
首筋に鋭い歯が食い込んだ。静信は暫く眉根を寄せ何かに耐えるように天井を見ていたが、暫くして、眼を閉じて其の儘ゆっくりと地に倒れ伏した。脳裏に浮かんだ姿は網膜に焼き付いて消えない儘静信を支配している。
「…どうしてかしら。貴方には、私の傍を離れて欲しくないって思うわ。不思議ね」
彼が“答え”を見つけた瞬間、恐らく自分も“答え”を見つけるのだろうと沙子は予感する。秀麗な白面にかかっている髪を払いあげてやった。
|