静信は屍鬼の側に下ったのだ。

 この一文の間の空隙を読み取ろうと敏夫は虚空を見つめる。理解は出来る、だが共感は出来ない。

 それだけだ。

 敏夫が感じ取れるのはそれだけだ。その一文だけだ。他に何も出てこない。付き合いが長い分、薄々あの幼馴染がこういった行動に出るのを心の何処かで予測していたのかもしれない。…喪失感?馬鹿な。奴とおれとは完全に別個たる存在だ。違う。漠たる寂寥感が胸を覆っている。

 機が熟するのを只管待っている。おれは夜明けを待っている。そしてその夜明けの先に恐らく静信は居ないだろう。

 頑固な奴だ。昔から自分の考えを曲げようとしないのだ。
 水と油のように、おれ達は不思議な事に根本から異なっている。…今更何を言ったところで、奴の考えは変わらない。

 そもそも、変える必要も無いだろう。お互いもうガキじゃない。お互いの道がある。奴がもう二度と交わらない道を選んだとしても、おれにそれを止める権利は無い。分かっている。分かっている。

 ───分かっているんだ。

 

 

 ジュ、煙草の火を灰皿に押し付けると燃滓が微かに悲鳴をあげた。最後の残照が宵闇に照る。…窓から彼はやってくる。
「煙草は身体に毒だよ。医者の癖にそんな事も知らないのか」
「おれから唯一の楽しみを取り上げるなよ。もう年なんだから」
「…酷い面だな。またやつれた?」
「今丁度少し睡眠を取ろうと思っていた所だが」「じゃあおれは邪魔か」「いいや。見張りが側に居てくれた方が安心して寝れる」「ビビってるんだ?」「そりゃあ、なぁ。おれは未だ生きたいから」
 少年の軽口を全て受け流し、おれは棚の片隅に置いてあるレコードプレーヤーのスイッチを押した。何だソレ、あんたそんなオンボロ持ってんのか、と聞かれおれは力無く笑う。
「オンボロ…とは酷いな。CDよりレコードの方が一般に言われている通り音は良いって話だ」
 なんで、と少年は訊ねる。「さあね。おれは医者だからそこらへんは専門外だ」と苦笑しな答えながら、おれは考える。矢張りおれはこういう人間なのだ。奴とは違って結果さえ良ければ過程など全く気にしない。───お前は短絡的で直情的すぎる、と言い放った静信に、それはお前の方だと言い返した記憶がある。だが本当に奴は短絡的で直情的だろうか。逆に何も考えず自分の望む結果自分の描く理想に向って邁進してきたおれの何処が短絡的で直情的でないのか。
 今更考えても仕方が無い事だけがぐるぐると回る。レコードも回っている。音楽が流れ出した。

 

Es erhub sich ein Streit.
Die rasende Schlange, der höllische Drache
Stürmt wider den Himmel mit wütender Rache.
Aber Michael bezwingt,
Und die Schar, die ihn umringt
Stürzt des Satans Grausamkeit.



「何の歌だよ」
「バッハの教会カンタータ。知らない?リラックスするにはクラシックだろう」
「クラシックは聞かない」
「BWV19、Es erhub sich ein Streitだ。医者だから多少は独逸語にも嗜みがあるからな、バッハはよく聴いた。この無駄の無い整然と秩序立てられた世界が好きだ」
「どういう歌?」
「…そうだな、難しいが…大天使ミカエルの正義と勝利とを讃えている。今流れている合唱、そして次のバスのレチタティーヴォは」おれは歌詞カードのアルファベットの羅列を睨む。

Gottlob! der Drache liegt.
Der unerschaffne Michael
Und seiner Engel
Heer hat ihn besiegt.
Dort liegt er in der Finsternis
Mit Ketten angebunden,
Und seine Stätte wird nicht mehr
Im Himmelreich gefunden.
Wir stehen sicher und gewiss,
Und wenn uns gleich sein Brüllen schrecket,
So wird doch unser Leib und Seel
Mit Engeln zugedecket

.「…引き続き彼の、そして自分らの勝利と正義とを朗々と謳っている。そして」

Gott schickt uns Mahanaim zu;
Wir stehen oder gehen,
So können wir in sichrer Ruh
Vor unsern Feinden stehen.
Es lagert sich, so nah als fern,
Um uns der Engel unsers Herrn
Mit Feuer, Roß und Wagen.

「ソプラノのアリア。神の恩寵を語る。取り囲むように神の軍勢が我々を守っているのだから、何も心配事は要らないのだと」

Was ist der schnöde Mensch, das Erdenkind?
Ein Wurm, ein armer Sünder.
Schaut, wie ihn selbst der Herr so lieb gewinnt,
Dass er ihn nicht zu niedrig schätzet
Und ihm die Himmelskinder,
Der Seraphinen Heer,
Zu seiner Wacht und Gegenwehr,
Zu seinem Schutze setzet.

「次のテノールのレチタティーヴォでは、一つの問いかけが…、人とはそもそも何者なのか、と」
「へえ。それで、何て?」
「“地の虫”、つまり“哀れな罪人”…だが神の愛は罪人の彼をも包み込み守る」

Bleibt, ihr Engel, bleibt bei mir!
Führet mich auf beiden Seiten,
Dass mein Fuß nicht möge gleiten!
Aber lernt mich auch allhier
Euer großes Heilig singen
Und dem Höchsten Dank zu singen!

「テノールのアリア。我の傍らに天使よ留まれ、そして我をこそ導けと」

Laßt uns das Angesicht
Der frommen Engel lieben
Und sie mit unsern Sünden nicht
Vertreiben oder auch betrüben.
So sein sie, wenn der Herr gebeut,
Der Welt Valet zu sagen,
Zu unsrer Seligkeit
Auch unser Himmelswagen.

「ソプラノのレチタティーヴォ、天使の御尊顔を慕い奉る、とよ。来るべき別れの日、我を導き給え」

Laß dein' Engel mit mir fahren
Auf Elias Wagen rot
Und mein Seele wohl bewahren,
Wie Lazrum nach seinem Tod.
Laß sie ruhn in deinem Schoß,
Erfüll sie mit Freud und Trost,
Bis der Leib kommt aus der Erde
Und mit ihr vereinigt werde.

「最後のコラール。…これは…もう聞きたくない台詞だな。ラザロのように安息を給え、御許に憩い、慰めを、…我の身体と魂を再び蘇らしめよ」
 夏野君の眼が伏せられた事におれは目敏くも気付く。ただ酷く疲れている。鉛のように重い身体がソファに沈んだ。今更だが、レコードを流さない方が良かったかもしれない。疲労が増したように感じる。

 声が聞こえる。今丁度テノールのレチタティーヴォが始まった所だ。一つ一つの曲は案外短い。それが寄せ集まって一つの体系を示す。───聖書というテキストによる、一つの信仰の形。

「…宗教曲は平気なのか」
「余り気分は好くない。───でも良い曲だな。ラザロっていうのは誰?」
「聖人とされる人物の内の一人だ。死んだ筈だがキリストが声をかけると息を吹き返し墓の中から蘇った。ドエトエフスキーの『罪と罰』の中にも其の名が出てくる。有名所だな」
「詳しいね」
「身近に、本の虫の小説書きが居たからな」
 そうだ、この本でさえ、奴が契機だった。魅入るように頁を見据える白貌に当時の自分を何を思ったのか、横から取り上げて其の儘家に持って帰りぱらぱら眺めた。中学生の己にはその半分も意味を解する事は出来なかったが、この幼馴染が何かの泥濘に身体を埋めてしまっている事には気付いた。それが最初だった。何故か少し恐ろしい心地がした。まるで、急に遠くに彼が行ってしまったような。
 ───なんつう暗くてワケ分からん本読んでんだよ、バカ。

『…僕は答えを探している。』

 

 

 

 

 

 



「人間はどうして相容れる事が出来ないのだろう」
「…何かあった?」
「…ちょっとな」
 ああ、静信、おれも答えを探している。誰しもそうだ。そしてその問いも解もはっきりとは存在し得ない。その暗闇の中をおれもお前を彷徨っている。
「おれは冷たい人間だろうか。妻の恭子を人体実験の被験者として利用しても何の後悔も罪悪感も首を擡げてこない」
「そう暗示を自分でかけている可能性もあるんじゃないか。罪悪感を持たない人間なんて居ない」「屍鬼も?」夏野君の眼が昏く光った。「…さあね」
 おれは更に新しい煙草を取り出して火を点けた。
「…そして、人の心変わりを嘆いている自分も居る。そして何も選択しようとしない自分から動こうとしない村人を憎んでいる自分も居る。理解はしているが誰にも共感は出来ない。孤立の中におれは居る。おれは矛盾し分裂している」
「そんな事、おれに言っていい訳?不信感を煽ろうとしているようにしか見えない」「君が相手だから言っている。悪いか?」
「…人間、誰しも分裂しているもんだろ。自分の見ている自分が本当の自分とは限らない。相手の見ている自分が本当の自分だとは限らない。そもそも“本当の自分”なるものが存在するかは大変怪しいところだと思うよ。…人は様々な意識の複合体なんだ。だから闇も光もその中に全て集約する」
「君は、年の割に随分と達観しているというか…あいつみたいな事を言うんだな」
 誰、と少年は訊いたので、逆に君が飼っているというスパイというのは誰だ?と訊ね返してやると、あんたが知る必要は無い、と薄らをした微笑が返ってきた。彼は人間だった頃から随分と雰囲気が変わった。…失笑とも、嘲笑ともとれるが何も映し出さない平淡な笑みだ。そしてそれを見ておれは思う。
 こいつもまた迷路の中を彷徨っている。
 正義は存在せず神は何処にも存在しない事を知っている。罪に濡れようとも孤独に走り続けるしかない事を。神の軍勢とやらがおれたちを取り囲み守っているはずもない。あるのは…死だ。村は死によって包囲されている。おれたちは死によって包囲されている。つまりはそれしか無い、という事だ。

 紫煙が肺を廻った。眼を瞑る。ソファに身体が沈んでいる。
「…今日は随分とお互い饒舌だったな」
「そうだな。お互いこれが見納めになる事が分かっているからだろう」
 幸運を、と手を振り去っていく少年の後姿を見る。テノールのアリアが終わりソプラノのレチタティーヴォが始まる。
「我の傍らに天使よ留まれ、そして我をこそ導け。天使の御尊顔を慕い奉る。来るべき別れの日、我を導き給え…か」
 天使というには余りに…。何故なら彼はまた己がこれから殲滅しようと思っている奴らと同種であるからだ。そしておれは彼の死を望んでいる。彼は無表情にそれを肯定した。齢十五かそこらのガキが、だ。矢張り理解は出来るが共感は出来ない。おれは孤絶している。そしておれと同等に彼も孤絶している。

 


 そして必要とあらば、計画の為にこの手でかの天使を殺す事も無表情に無感動におれはただ只管冷徹にこなすのだろう。

 あらゆるものを犠牲にしてまでこの村を守る、奴らを滅ぼす、…何の為に?  
 おれはその解を未だ見つけていない。

 

 

 2010/10/31