「…あち〜」
徹が空を仰いで大きな声で思わず独り言つにもかかわらず、隣の夏野は一言も口を開かずに、肌蹴させた襟元をぱたぱたと扇いでいる。酷暑だ。じりじりと肌が太陽の熱視線に悲鳴をあげていた。
───元はといえば、バスに追い抜かれたのが運の尽きだ。
幾ら待てどもバスが来ない。これなら次のバス停までは少なくとも歩いて行った方がまだはやいのでは、と痺れを切らせて歩き出し暫くするとバスが涼しげな顔で追い抜いて行く。地団駄を踏む元気すら無かった。夏休み前の授業は酷く疲れる。暑さとテストで頭がやられていく…そして帰りはこの始末だ。それでも仏頂面ながら早足で粘る夏野の隣を歩く徹は、相変わらずののほほんとした様子。それが夏野の気分を更に曇らせている。
暑さで夏野の眼が眩む。景色が全て白んでいる。視界すらも蜃気楼の如く歪んだ。自然の緑が宝石のように真昼の光に輝いた。
蝉の声に負けじ、と大声で傍らを歩く徹が喚く。
「なつの〜、あちーよ。どーにかしろお」
「…」
今度こそ物凄い険悪な目つきが徹を見据えた。
夏野が黙っているのは機嫌が殊更悪い時と相場が決まっているが、それを気にする徹ではなかった。
「何でバスってこんなにタイミング悪いのかねぇ。チャリさえあったら少しは楽になるんだけどな〜」
「…」
「あ、そうそう。修理セット買った?ダメだぞう、ちゃんとアレ買わないと。お前今日チャリ持ってないのもそれ原因なんだろ?仕方ないな、家着いたら、とりあえずお前ウチ来いよ。チャリ持ってきてさえくれればおれテキトーに直してやっとくからさ、…あ、ついでにまた夕飯ウチで食ってけよ、夏野」
「…名前で呼ぶなっつってんだろ」
「あ、やっと喋った」
切れ長の瞳が更にスウ、と細められて漸く徹は笑顔を引き攣らせる。
「…そんなにイヤなの?良い名前じゃん。夏野」
「何が良い名前だ。女みたいな名前」
…つか、何で付いてくんだよ。
さも不機嫌そうに言われた言葉に、徹は笑顔の儘首を傾げる。
「や、だって帰る方向一緒だし、バスに追い抜かれたという不幸な境遇も一緒だし、何よりおれたち友達だし」
「友達だぁ?おれがいつ、おまえと」
「だって修理セット繋がりでこないだおれんトコ来たろ」
「それは、チャリが壊れたから」「晩飯もウチで食ったろ」「…それも、あんたがウチで食えってうるさいから」「あんたじゃなくて、徹な。皆徹ちゃんって言うけど」
夏野が言い返そうと口を開いたその瞬間、別の声がそれを遮った。
「あら、武藤さんとこの徹ちゃん。工房の所の息子さんとお帰りかい?学校もこう暑いと大変だろう、体調崩さないように気をつけなさいよ」
「おーおばちゃん。も〜大変すぎるよ〜暑いにも程があるよねえ。おばちゃんも身体には気をつけてよ」
畑仕事をしている中年の女性に声をかけられた徹はにっこり笑ってひらひらと手を振った。それを見ている夏野はチッと舌打ちしてスタスタその横を通り過ぎる。徹が慌てた。
「おっと、夏野に置いてかれちまう。じゃあまたね、おばちゃん」
「お二人さん仲良いんだねぇ。喧嘩しないようにね」
───うるせえ、仲良いわけあるか。内心呟き歩調を速めた夏野の背後から足音が追ってきて、とうとうその肩を徹の腕がぐいっと引き寄せた。肩を組まれる。徹の方が頭半分程背丈が高い。
「酷ェ〜の、冷て〜の、おれを置いていくなあ夏野ぉ」
「うるさい。暑いから寄るな引っ付くな」
「おれとお前の仲だろ、夏野ぉ」
「うるさいっつってんだろ!それから名前で呼ぶなって!」
ベタベタと引っ付いてくる徹、鬱陶しがって徹を引き剥がそうとする夏野、二人が道端でぎゃあぎゃあ騒いでいると、またもや徹の名前を呼ぶ声がある。徹の弟の保と…もう一人、夏野の知らない顔だ。後ろに立っている。彼らもまた帰宅途中らしかった。
「兄貴?あ、夏野も」
保とは例の夕食会で一度顔を合わせただけだが、しっかり名前を覚えている。笑顔が徹によく似ている。
「お、保に正雄じゃないか」
徹が手を振ると、保の後ろに居る色白で背の高い少年が笑顔で手を振り返し、その後夏野の顔を見てすぐに保の背にコソコソと隠れた。声は小さい。
「保…誰?ソイツ」
「結城夏野だよ。こないだ引っ越してきた工房んとこの」
「ああ、あの変わり者って噂の…」
ボソリと聞こえた単語に夏野は片眉をあげた。名を正雄というらしい少年は、保に更に夏野の年まで訊いている。自分より一つ年少だと知ると、途端に自信を得た様子で夏野の前に歩み寄った。じろじろ品定めしているように夏野を見ている。
「ふん、結城夏野っていうのか。夏野って何ていうか…女みたいな名前だよな。変わってるな〜」
「…」
「確か苗字も最初母方の方名乗ってたろ。今は父方の姓名乗ってるみたいだけど…変わってるよな〜、何で苗字が二つあんのかな〜。皆噂してるぜ〜」
夏野の眼が正雄を正面から見据える。「おれの名前が変だろうが、苗字が二つ有ろうがどうだっていいだろ。あんたには関係無い」
「な…ななな!」
夏野の冷静かつ棘のある反撃が予想外だったようで、少年はたじろいだ。拳を握り震えている。水を失った魚のように蒼白な顔で、口をぱくぱくさせた。
「お、お、おれはオマエより年上なんだぞ。なんだその生意気なクチは、」
「おれは正論を言っただけだ、年齢もクソも無いだろ。ごちゃごちゃ余計な事を持ち出すなよ」
「…!!なんだよコイツ、徹ちゃん!何とか言ってやってよ!」
「え?おれ?」
徹に助けを求めたつもりだろうが、徹はさも困った風な微笑を浮かべている。
「ん〜…おれに言われてもな〜…。でも、人の名前が変だの何だの悪く言うのはダメだと思うぞぉ」
「そ、それは!だってコイツが生意気におれの事睨んでくるから…」
「睨んでない。自意識過剰だな、あんた」
「なんだとおお!」
夏野に掴みかかろうとした正雄に、慌てて徹が制止しにかかる。
「おいおい、喧嘩はダメだぞ二人とも。正雄、こいつクチ悪いし目つきも悪いけど、悪気があって言ってるワケじゃないからさ、仲良くしてやってくれよ。根は優しいし真っ直ぐなヤツだから」
クチも目つきも悪くて悪かったな、と益々仏頂面になる夏野の横で、正雄が喚いた。
「徹ちゃん!何でこんなヤツの肩持つんだよ!徹ちゃんはおれの友達だろう?!」
「そうだな。お前の友達だけど夏野の友達でもあるからな」
「いつコイツと仲良くなったんだよ!夏野、てめぇ徹ちゃんに取り入りやがって!」
「仲良くもないし取り入ってもないし友達でもないけど」と、冷静な夏野の突っ込み。徹ががっくりと肩を落とす。
「夏野ぉ〜その台詞は幾らなんでもねーだろーよお〜。おれとお前の仲だろ〜」
「うるさい名前で呼ぶな」
「徹ちゃん、こんな冷血ニンゲンに構うなって!こんなヤツ放っといておれと保っちゃんと一緒に帰ろ!」
「や、おれ夏野と帰るからさ。おれらの事こそ放っといて、先帰ってなよ。おれコイツのチャリ直してやんなきゃなんないし」
徹が夏野をまたもや引き寄せ肩を抱いた。夏野は嫌そうな顔をしたが、否定する気にはなれない。一緒に居ればこの少年にあれやこれやと絡まれることは確実なので、徹と帰路を共にしたくはなかったものの、自転車を直してくれるというのは有難かった。自転車が壊れる度に徹に直して貰っている。これで三度目になろうかという程だ。
「何だよ何だよ徹ちゃんまで…!おい、保!徹ちゃんに何とか言ってやってよ!」
「兄貴がそう言うんだからどうしようも無いだろ。行こうぜ、正雄」保は苦笑している。カッと、正雄の白い面に朱が走った。
「ギギギ…保も徹ちゃんも酷いよ!!も、もういいよ!おれ一人で帰るから!」
「あ、おい正雄…正雄!」ダッと走り出した正雄の背中を、保が健気に追いかける。
夏野が呆気に取られている内に、あっという間に二人の姿は遠くなっていった。物凄いスピードだ。声をかける暇すら無かった。
「…何、アレ」
「気にするな。正雄はああいうヤツなんだ。アイツも悪いヤツじゃないんだけどな〜…夏野、もうちょいアイツに優しくしてやってくれよ。捻くれてるけど、末っ子気質の甘えん坊なんだよ。見た所お前の方が口も達者だし頭も回るんだからさ、な?」
「何でおれが気ィ遣わなきゃなんないんだよ」
舌打ちして夏野は歩く。徹と歩いていると、色々と面倒な事があると今更ながらに気付いた。
「あんた、随分と人気者なんだな」ぼそりと呟いたつもりの夏野の声は、意外にも大きく響く。
「へ?」
「あの正雄ってヤツ、あんたの事矢鱈と気に入ってる素振りだったけど」
途端に徹がまた笑顔になった。
「お〜何だぁ夏野、ヤキモチか?おれは嬉しいぞ〜」
「アホか」
真顔で一蹴しても、徹はニコニコと笑顔を浮かべていた。その笑顔は、夏野の心に動揺を生む。この笑顔を見ているとどうにも落ち着かない心地がする。夏野は苛苛しながら言う。
「言っとくが、アンタと仲良くする気は無い。そもそもこの村の奴らと馴れ合う気は無い。分かったら付き纏うな。うざったいんだよ、あんた」
だが徹はさして気にした素振りも見せず、まだあっけらかんと笑っていた。
「あーお前懐深そうだもんな。人見知りする癖に、一度懐に入れたヤツは後生まで大事にしそうだもん」
夏野が徹をキッと睨んだ。苛苛した。
「お前、いい加減にしろよ。おれの事何も知らない癖に」
「そうだな、夏野の事、まだ何も知らない。だから教えろよ」「…あんたさぁ、話聞けよ」
ささ、と前に回りこんで、にこぉっと笑う顔に夏野は面食らう。
「あんたじゃなくて、徹な。呼んでみ?徹って」
…しつこいヤツ。変なヤツ。おれなんかに構うなんて。
「ああ!待ってよ夏野ぉ〜」
スタスタ先に行ってもそれでも付いて来る。セミの屍骸が道端に落ちていたのを夏野は見る。舌打ちする。
「うるせーんだよ徹ちゃん。…ほら、名前呼んでやったろ。これで満足か」
「あああ!夏野が今おれの名前呼んだぁ!」
感激した様子で大仰にも夏野に飛び込み抱きつこうとした体を、夏野がささっと避けた。徹の腕はスカッと空気を抱き、徹はバランスを崩してコケる。
「…おおう、冷たい…夏野が冷たい…そして転んで痛い…心も痛い…」
しくしくとウソ泣きする徹を一瞥して、夏野は「フン」と吐き捨てる。だがその口元が僅かに吊り上って楽しげである事に夏野は全く気付いていない。
2010/11/06
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