おれの父母は厳格で頭が固く、過ぎ去った封建時代のような古い考え方を持っていた。
元々結城家は由緒正しい家筋であるらしく、富裕な財産は勿論の事、おれは寝食何不自由せず育ったが、結城家の長男であるというだけで大変厳しく教育された。
彼らにとって少しでも気に食わない事をすれば、すぐにおれは怒鳴られる。おれは今でも覚えている。おれは昔から何かを創り出す事が好きだった。だから年が十にもなろうかという当時のおれは、父の誕生日に、父の似顔絵を描いた。何度も修正し、三日もかかった似顔絵。おれが誕生日おめでとう、と笑顔で差し出すと、父はそれを受け取り、そしてあろう事かその絵をビリビリに引き裂いた。───男が、絵を描くなどと女のようなバカな真似をするんじゃない。お前は結城家の跡継ぎなんだぞ。
そうだ、箸の持ち方から、立ち振る舞い、進学校に行かされ成績が悪いと父親が仕置きと称して暴力を振るう。それは仕置きでもなく教育でもなく、紛れもない暴力だった。おれの幼い心はこの時に無残にもバラバラに砕かれた。
『おれもお前にお仕置きなどしたくないんだぞ。だっておれはお前が可愛いのだから。息子を愛してるそれ故に、お前のために仕方なくやっているんだ。』
ウソだ。
おれの父母はおれを愛してなどいなかったのだ。
だってそれは、あんた達の理想に副えないおれは愛していないという意味なのだろう?あんた達に服従し成績の良い品行方正なおれでいないと愛してくれないという意味なのだろう?
おれは漸く知った。おれは自由ではなかった。『お前を愛しているんだ』という言葉に騙されて、それでもまだその愛を信じたくて、おれは今まで只管彼らに従ってきた。でも違った。そこには愛は無かった。其の儘のおれを愛してくれる人は誰も居なかった。そこに愛は無かった。おれは、何処にも、最初から、居なかったのだ。おれは誰だ?分からない。ただの操り人形でしかなかったのか。
おれを見ろよ。誰か、誰でもいい。おれを見てくれ。
叫んでも誰にも届かない。
その内見合い相手だとか何とか言って、おれの知らない女性を連れてきたので、おれはとうとう家を出た。金はあった。父親がおれの口座を勝手に作って、家の財産の三分の一をおれに分け与えていた。
その金を使う事に良心が痛まなかったわけではない。でもこうしておれはずっと彼らに騙されてきたのだ。あんたたちの言う『愛』に縛られ圧し掛かられ身動きすら出来ず呼吸すら出来ず、ただ只管黙って耐えてきたのだ。おれは悪くない。おれはあんた達から羽ばたかなればならない。じゃないと死ぬんだ…おれの中の何かが。窒息してしまうんだ。失墜してしまうんだ。そしておれはおれじゃなくなる。
その金を使って一人暮らしを始め、予てから志望していた美術大学に進んだ。何かうつくしいものを創り出したかった。おれの中に淀み渦巻きおれを苦しめる憎しみも怒りも全て吐き出して、おれは綺麗になりたかった。だから綺麗なものに憧れた。綺麗なものを創り出したかった。
そして、そこで梓と出会った。彼女もまた、両親の重い愛に苦しんでいた。俺たちは互いにシンパシィを感じ、惹かれあい、一緒に暮らすようになって、息子が一人、生まれた。
───ふふ、あなた。あなたの息子よ。
生まれて初めて抱いた赤子は天使のように見えた。眠っている。手が震える。これは…歓喜だ。おれは今までにない程満ち足りていた。
…幸せだった。
名前をどうしようか、妻と話し合った。夏野という名前にしようと提案すると、妻もすぐに賛同してくれた。
平安初期の貴族の名だ。これが、おれが、お前の父さんがお前に与える最初の贈り物だ。どうだ、良い名だろう?だってありきたりな名前ではお前をすぐに見つけられないじゃないか。お前は他のヤツとは違うんだ。おれの子なんだぞ。世界で一番、おれが幸せにするんだ。世界で一番、幸せになる子なんだぞ。おれが感じたあの怒りも憎しみも、お前は持たなくていい。知らなくていい。おれはあんな頭の固い古い考えの父親とは違う。おれは誓う、お前を幸せにする。
だから夫婦別姓を名乗らせる。日本古来の家制度に縛られるのは古い考え方だ。おれがその昔苦しんだそれを、お前には味あわせたくない。お前の為だ。夏野は不思議そうな顔をしている。『お父さん、どうして、なつのにはみょうじが二つあるの?』
あのね、今日たなかくんに、みょうじ二つあるの変なの、っていわれたよ。
「いや、いいんだよこれで。正しいのはおれたちだ。夏野が心配する事は無いよ、間違っているのは向こうなんだからね」
不思議そうに頷いていた夏野はいつの間にか成長し、もう梓の背を越している。梓に似てうつくしく聡明な子だ。おれは満足している。おれは矢張り正しかった。
だから田舎に引っ越す。夏野は面白くなさそうな顔をしている。
だがこれもお前の為だ。父さんはいつもお前の為を想っている。自然に囲まれた風光明媚な田園景色はこんなにもうつくしい。ここではお前を縛るものは何も無い。お前を取り囲む無機質なビル群も無い。虚ろな眼をして彷徨う群集も居ない。人の悪意に脅える必要も無い。そうだ、ここなら悪人だって居ないだろう。今日から家の戸締りを厳重に確認する必要は無いんだ。お前は自由なんだ。世界はこんなにもうつくしく愛と生命に溢れているんだ。自由だよ、夏野。お前を脅かす悪いものは、全部父さんがやっつけてやるから。だから笑ってくれ。笑って、夏野。
だから迷信を遠ざける。非科学的なものは夏野に悪影響だ。
そしてうるさい子供たちを遠ざける。夏野には相応しい友人を作って欲しい。彼らは相応しくない。夏野に近づくな。あの子を連れて行くな。あの子はおれが守るんだ。おれが。おれだけが愛しているんだ。おれだけが幸せに出来るんだ。だから笑ってくれ。笑って、夏野。どうして動かないんだ。どうして寝息を立てていないんだ。
夏野が起き上がる。ハハハ、父さんの願いが届いたんだ。
母さんの代わりにおれは料理だって出来る。お前のためだけに拵えたスープ。どうだ、美味しいか?
訪ねてきた起き上がりを包丁で刺す。どうだ夏野、父さんは頼りになるだろう?優しいだろう?賢い父親だろう?正しい父親だろう?あんなバカな父親とは似ても似つかないだろう?
父さんはお前を、本当に、本当の意味で愛しているんだ。正しく愛しているんだ。夏野。おれの息子よ。
お前はどこまでも自由だ。
あんな父母のようにはおれはならない。おれは奴らとは違う。奴らは間違っていたがおれはもう間違わない。おれは幸せになるんだ。お前の幸せがおれの幸せなんだ。お前は自由に生きるんだ。どうしてそんな顔をするんだ?どうしてそんな哀しそうな顔をするんだ。どうして哀しそうに笑うんだ。どうして無理に笑っているように硬く笑うんだ。お前は今幸せなんだろう?だってお前は自由なんだから。だって父さんはこんなにもお前の事を愛しているんだから。
「父さん、ここから出して。」
2010/11/05
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