薄目が開く。
「あ、目ェ覚めた?」
徐々に覚醒していく意識を叱咤し、瞼をしっかりと開くと徹の顔が超至近距離にある。夏野は思わずその横っ面を思いっきりグーで殴った。尻尾を踏まれた猫のような叫び声。
「ふぎゃっ!!なにおする夏野!」
「近寄るな」
それでもまだ退こうともせずぎゃあぎゃあ騒ぐ徹を無視して、夏野は辺りを見渡した。徹の部屋だ。徹の部屋のベッドに夏野は横になっている。徹がその夏野に覆いかぶさるようにして、夏野の頭の両脇に手を置き覗き込んでいた。
夢を見ていたらしい。余韻がまだ残っている。徹の身体の下から抜け出そうともせず、夏野は其の儘双眸に手を当て遮光する。蛍光灯が酷く眩しかった。未だ意識をどんよりと霞がかっている。
徹は、夏野にぶたれた左頬をまだ摩りながら、口を少し尖らせむくれ気味で言う。
「随分静かにしてんな〜ってコントローラー置いて振り返ったら、ぐーぐー寝てんだもん。そんで何だか難しい顔して小さく唸ってたからさ、起こしてやったのに」
「そりゃ、どうも」
「あ、今ありがた迷惑だって思ったろ、そのツラ。何だよ〜悪い夢見てたんじゃねぇの?」
「…」
「何の夢よ。人に言った方がこういうのってスッキリすんだぜ〜知ってた?」
夏野は額にかかった前髪をかきあげた。
「うるさいな。…だから、都会に居る夢だよ」
───夏野は都会に居た。都会の駅に居た。雑踏の中で、黙って、一人で立っていた。過ぎ行く電車と過ぎ行く雑踏をただ見ていた。それだけだ。
徹の目がさも意外だとばかりに瞬く。
「へぇ、じゃあ良い夢じゃん。だってお前、この村出て都会に帰りてぇんだろ?」
「ああ」
「ふ〜ん。でも、そんな夢見てたんなら、なんでお前魘されてたのかねぇ」
魘されていたのではなく、息苦しかったのだ。空気記憶だけがぼんやりと残っている。群集に囲まれ、閉塞感に夏野は空気を求めて喘いでいた。
「お前さ、田舎嫌い嫌い言ってるけど、実は都会の事も嫌いなんじゃねーの」
徹の頭を、またゴツンと殴る。徹がまた痛い痛いと喚く。
「もう、いいから退け。徹ちゃんさぁ、ベタベタしすぎなんだよ。おれ人肌とか嫌いだから」
「ええ〜!だって夏野抱き心地いいんだも〜ん」
ベッドに寝た儘の夏野に覆いかぶさり抱きしめてくる徹を、夏野はベリっと引き剥がした。だが、徹の力は思いのほか強く、またすぐに抱きこまれてしまう。
───意味も無く焦っていた。
そんな時は、明け方になると同時に夏野は国道へと走り出す。だが村を出る事は出来ない。金も無ければ、都会に行って泊まる場所も無い。夏野は己の非力さを嫌という程知っている。今の自分ではどうにもならない事を知っている。だから夏野は努力する。都会の大学に行くために。だから焦っている。息が詰まる。
早く。早くこの村を出ないと。あの国道を南へ下って自由に。
だが夏野は気付いている。おれの本当の望みは都会に行く事では無い。都会は決して自由の象徴では無い。
そうだ、おれはただ自由になりたいのだ。親の庇護も抜けて、全ての柵(しがらみ)から解放されたいのだ。
だが、本当に、都会に行く事で自由になれるのだろうか?あの窒息しそうな閉塞感も畢竟此処と変わらないのでは?都会に居た時おれは幸せだったのか?果たして自由だったのか?答えは見つからない。どうすればいい。
それでなくともまだ夏野は中学生だ。四年は長い…遠すぎる。
ただ、日々増えてゆく蝉の屍骸だけが網膜に焼きつく。何かの予感とも言うべきものが、胸に降り積もってゆく。
そこで、夏野を抱きしめる腕の力が強まった為に、夏野が漸く意識を浮上させた。徹が顔を覗き込んでいた。
「あのさ、ハグってのは不思議なモンでさぁ。人に触れてっと自然とイヤ〜な事も全部ぶっ飛んでいくんだよな。なんでだと思う?」
屈託なく徹が笑顔で言う。
夏野は此の村から逃れる事とあの親から逃れる事はどうしても諦めきれない癖に、今この瞬間、徹の腕の中から逃げる事はもう諦めている。何故だろうか。…疲れているからだと夏野は自答し、そしてすぐに自嘲する。人はこうして何時いかなる時であっても何が対象であっても、“それ”に言語という記号を与え自分の理解の範疇に収めようとする。現に、夏野は今、その問いに気付くまい、と無理矢理ありきたりな言語の枠組みを与えて納得しようとしたのだ。安定を得る為に。
そして結局の所、己すらそうして今まで他人の意思に故意に曲げられてきたのだ。秩序の安定のために、記号を与えられそのレッテルに従うよりなかったのだ。
例えば、出来の良い息子。学園ドラマのヒロインの相手役。そうして彼らは夏野を理解する。彼らの目に映る夏野は、彼らにとって都合が良いように曲げられた夏野の姿でしか無い。彼らの目に映る夏野は、夏野ではない。
窒息、する。夏野は思う。誰もおれ自身と対峙しようとする者は居ない。
だが、同時にこうも考える。───では、今おれを包むこの腕は?この腕は、おれをどう捉えているのだろうか。
目が合うと、徹はにっこりと微笑んだ。
「金八先生曰く、人っつー字は、人と人が支え合って出来てるんだとよ。つまり、ニンゲン一人じゃ生きてけねーって事だろ?だから、人と触れ合うと心が落ち着くんじゃないかな。…どんな強いヤツでも、独りで立ち尽くしていればいつかは儚く崩れちまう。解るか、夏野」
「…んだよ。放せよ」
「お前はおれの事心底嫌いかもしんねーけどさ、おれは何かしんねーけどお前の事好きだぜ。友達だと思ってる。だから、今日ウチに遊びに来てくれたのも嬉しいし、最初は警戒心丸出しの野良猫みてぇだったお前が、おれのベッドでうたた寝してたのもさ、ちっとはおれに懐いてくれたのかな、なんて思っちゃったりして、うししし」
つまりさ、おれが言いたいのは、もっとおれを頼れって事だよ、なぁ夏野。何に悩んで何に焦ってんのかはわからねーけどさ、これだけは忘れんなよ。幾らこの村を嫌おうとも、村の奴らを嫌おうとも、これだけは忘れんなよ。この武藤徹さまがさ、いつだってお前の味方だって事をさ。お前の事を大好きな、お前の親友だって事をさ。
夏野は暫し言葉を失ったようにうろたえたが、すぐにその動揺を隠すように憎まれ口が喉から漏れ出でた。
「…勝手に、友達から親友に昇格させるな」
「あ、てぇ事は友達なのは否定しないって事だな!夏野ぉぉぉ今おれはモーレツに感動している!!」
「だから抱きつくなって…」
怒る気力も失せ、夏野は抵抗を諦め四肢の力をだらりと抜いた。よりきつく密着した徹の身体は温かく、夏野はひっそりと目を閉じる。
徹は、自分の事を嫌いでも良い、と言う。───お前がおれの事を嫌いでも、おれはお前の事が好きだ、友達だと思っている、と。
これは何だろう。おれは到底人に好かれるような性質じゃないのに。
これは何だろう。おれの中に蟠る、温かいものは。
徹に見えないように、夏野はきつく眼を瞑る。
…早く。早く出ないと。早く此処から逃げないと。
居心地の良さに気付いてしまえば終わりだ、と何処かで囁く声がする。それを無視して、今、夏野は徹の体温に安んじている。
2010/11/06
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